7月25日(木)共感の領域を拡げませう

 終日うす曇り。24℃〜29℃。蒸し暑い。




 意識のハード・プロブレムつう話しがありました。ココロはどっから来たのか?天から降りてきたのか、はたまた物理的、化学的、電気的な性質からもたらされたのか。永井均にゆわせれば、他人のココロをリアルに感じれればそれはもう自分のココロ。つまりどう仮定しても自分のココロからの離脱はでけません。つうことで自分のココロ(意識、クオリア)は永遠に客観化出来ないのれすぅ。

 しむ直前としんだ後では物理的な身体状況はどー違うのでしょうかっ!単に川面の泡が一つ消えてしまっただけでしょうか。ホントは意識ってのは外界を認知しようとする生命体すべてに備わっているアプリオリな土台なんすよ。人間だけに特別に与えられたもんではなーい!ですからその意味や機序を解明すべきものではなくして、それを存在の大前提にすべきものなんす。

 小賢しくも、意識の謎を解こうなどと画策すること自体が大間違い。何しろ画策しているその本体が意識なんすからね。大笑い♪

 ですから、どんな単細胞でも自律して外界を認識しようとしている限り、それには意識があると仮定した方が理に適いまふ。我らが他人の痛みを真に感じれないように、アメーバの痛みも感じれないのは理の当然。それなら、我らが自分のクオリアを外延して他人のクオリアを分かった心算で社会生活しているように、生きとし生きるものすべてのクオリアを確信いたしませう!

(玉虫の山川草木悉有仏性より)







 共感と反感は紙一重:90%は合わなくても10%の共感を大切に。(箭内)いいねっ!





 結局、公正か自由か、規制か緩和かというのが本質なんでしょうね。穏便か波乱万丈かに置き換えていいかもしれん。いや北欧か北米かかな?う〜ん、部分(個人)か全体(社会)かという分け方もあるな。(玉虫の政治的レッテル論より)