5月1日(水)五月バカ(毎月の1日はバカの日にしませう)

 うす曇り。12℃〜17℃。ちょと涼しい皐月入り。ツバメが飛んでいる。



 研ぎ澄まされた少数精鋭というよりは数で行こうよっ!つうのが生物の戦略ですね。花粉にしろタネにしろ、卵にしろ幼生にしろ、その大部分は無駄になります。少数の子孫しか産まない哺乳類だって、精子レベルでは数億の殆んどが無駄ですぅ。ということは、生物界(含む人間)は偶然が支配していると言へるのでせうか?偶然と必然の織り成す巷に、今日も揺蕩う人生なり。






 ハインリッヒの法則
 「1件の重大事故の背後に29件の軽微な事故があり、その裏には300件のヒヤリ・ハットがある。」という経験則。数字にはイロエロな説がありますが、ピラミッド型をしていることは確かです。それを利用して普段から軽微な事故やヒヤリ・ハット経験を調査・累積し重大事故を予測するってことを原発ではやっていたのかな?あれはソーテー外の天災だからとしてやってなかったのかな?ともあれ人災の必然と、天災の偶然という運不運はつきものです。リスクを取って原発を使っている国は、短期的にはエネルギーを制して有利ですが、果たして長期的にはどーなんでせうかっ?事故が起きたら地球規模の災害ですから他国にも迷惑がかかりまふ。これもまた「共有地の悲劇」の1種なのかなぁ。ドボン






 人道主義の相克:
 共同体の範囲を経済原理で動く人間社会から生態系全体に拡げた考え方もあります。人間にとっての短期的な利益が生態系を破壊し、それが却って人間社会にも影響を齎すといふ功利的な理由だけではありません。人間もその他の生き物も山や川や森や海もすべて平等に共同体の一員であるという考え方です。この構成員には、人間にとって有害であると排除された動物も含みます。例えば中国でのスズメの撲滅は、害虫の大発生をもたらし凶作による飢餓を発生させました。欧米のディア・ハンターが鹿を増やそうとオオカミを撲滅したら、鹿が増え杉て山が荒廃し結局鹿も激減してしまったと。環境と人との関係だけを考えていても自然は回復しないのれすぅ。天敵の居なくなった人類は、森の鹿と同じような衰退の経路を辿るのでせうか?鹿を間引くように、人間を間引くことは人道上できません。ということで差し当たり産児制限のようなことが推奨されていますが、坂東眞砂子さんのような考えの方もおられますから一筋縄ではいきません。ラディカルな環境主義者は人口増加しているアフリカへの食糧支援にさえ反対しています。人口増加→食料不足→飢餓→食料支援→人口増加というスパイラルに歯止めが掛からないと警告しています。食料支援と人口抑制と果たしてどちらがより人道的なのでしょうか?難しい問題です。(ちょと統計を調べてみたら:飢えや貧困でしむ人:約1000万人/年、飢えが原因(病気や栄養不良も含む)でしむ人:約2000万人、年間の死亡者数:約6000万人、年間の出生者数:約1億3000万人、だってYO−!毎年約7000万人も増えてんじゃん。)そう言えば循環型社会として一部の者からは理想視されている江戸時代は3000万人前後と人口も安定していましたが、その裏には姥捨て山があったのれすねぇ。考えさせられます。