11月13日(火)主観と客観の狭間の小難しい話し

 薄曇り&薄晴れ後秋晴れ。13℃〜18℃。枯葉散り敷くペーブメント。秋深まる。


 そもそもの根拠とか絶対に疑いをはさめぬものとかも結構形而上学的な概念で、そんなものは無くっても生きてはいけます。神、死後の世界、霊魂、時間の始まりと終わり、宇宙の果て、などとおんなじように、「われ思う」って認識主観も実は誰にも分からないものなんすね。いや自分の主観は分かりますよ。こうして現実に今ここで無駄な考えを弄している自己主観は。でも人の主観は絶対に分かりません。分かるのは自分のだけ。どれ位痛いのか、どれくらい美しいと感じているのか、どれくらいしやわせか、どれくらい欲しているのかなどなど。だからみんな自分とほぼ等しい感性をしているとの仮定の中で暮らさざるを得ないんす。証明なんかはいりません。そう仮定しても、現実とそれほど齟齬がなけりゃあ、充分暮らしていけます。ただ自分と他人とは多少違うんだっつう想像力は担保しておくべきでしょうね。色弱の人とか高音域が聞こえない人とかは居るんですから。また感受性の鋭敏な人や鈍感な人も、痛みを強く感じる人や鈍感な人もいまふ。相手の感じているものや考えていることの正確な実態は永遠に分かりまへんが、物事イチゼロじゃないんだから、少しは分かるように努めればエエんでね?

 もう一つ。生物ってのは外界を感知し、それを保持し解釈して、適切な対応をするものだと言へます。即ち、入力ー記憶・分析ー出力ってな機械ですね。これは機械系でもコンピュータ系でもモデリングできまふ。アメーバから人間まですべての生物はこうして生きてきました。でもアメーバは実際にどういう風に感じているのか?とかロボットにはこの世界がどのように見えているのか?なんて絶対に分かりませんよね。ま、お魚とかカエルでも同じですけれど。この壁が自分と他人との間にも本質的に立ちはだかっているのです。どんなに科学的に分析できても、それがどう感じているかなど絶対に分からないのれすぅ。これが主観を客体化した途端に、今ここで世界を認識している主観から、偽の主観(外部から分析されている主観)に変容する真の意味なのです。ですから真の主観@クオリアなんぞを科学的に研究しようと言ふのは原理的にその不可能性が初めから決まっているのれすぅ。ジャンジャン

 石は意志を持ちませんから自然法則のままに動きます。つまり必然的。蝉は網で捕ろうと思ったらジッと鳴いておしっこをひっかけて逃げて行きます。つまり動きの予想でけない偶然的な動きになります。でも蝉の抜け殻は風に吹かれて自然法則で動きます。石に張り付いてる苔に寄生するクマムシは石から栄養分子を摂りいれますが、その動きは外界に反応して偶然的。などと自然界でも必然と偶然は絶えず糾う縄のように目まぐるしく入れ替わっているのれすぅ。これが世界の実相。だから死んだ惑星だって、いつかまた自分の意志で動き出す或るものを創り出すかもよ。プ