8月2日(木)言葉の研究は人間の研究であーる。

 入道雲のいきり立つ夏空。ようやくこの付近でもミンミン蝉の鳴き声が聞こえ始めた。
 昨夜ロンドンの夜空で気が付いた満月、今夜は日本で煌々たり。ああ、世界は一つ。




 楽天電子書籍端末「KOBO」の初期トラブルが話題になっていたので覗く。そしたら、こんなんも話題になってますただ。いわゆる人材募集広告:
「カナダのKoboチームと時折コミュニケーションを行い、 グローバルな ベストプラクティスを実践していただくグローバルなオポチュニティです。」だってYO−!?
グローバルなベストプラクティス?グローバルなオポチュニティ?時折りコミュニケーション?これはカタカナの方が多いよね。プ そのまんま英語にしてもイイかも。いや逆に英語の原稿をそのまんまカタカナにしたのかな?現在の日本ではこれがそのまま通りまふ。そー言へばこないだ木更津にでけた巨大アウトレットモールに関心を持ってネットで調べていたら、テナントが殆ど英語の名前になってるの。最近渋谷・原宿で開店するのも英語名が多いよね。う〜む。英語化すなわちグローバル化なのか。考え込む。アイデンティティなんてのを日本語にするのは極めて難しいですが、コミュニケーションとかマネージメント、モチベーション、パフォーマンスなんてのも意味を書かせてみると人によってそれぞれ違うんですね。つまり抽象言語を生活言語に変換するのは、その人の持ってる語彙によってさまざま。
で、これで楽天を笑へるのかっつうと、そーでもない。古代日本で漢字を導入した頃から真名(漢字)は抽象言語、仮名は生活言語とすみ分けていたんすね。ずっと2重言語構造です。それに英語が第3言語として加わったにすぎないと。すると今は3重言語構造かい?また新たなリンガフランカが出てきて、その抽象概念が新しすぐるときは、きっとそれもそのまま取り込んでしまうよ。このように日本語は多重言語構造が可能であるところの稀有な言の葉なんです。ウハハ
しかし、平川克美くんによると奈良・平安の昔から日本の知識人の仕事はこの抽象言語と生活言語の間に架橋することなんだと。つまり知識と生活実感とのあいだを繋ぐ作業でありまふ。空疎な外来語を如何に身体性を持った実感でける言語に翻訳するのか?実にむづかすい仕事だすな。でも江戸でも明治でも現代でもみんなこれをやってます。特に明治期の欧米抽象言語を漢字に変換した作業は世界に類を見まへんねィ。これで科学、人文学、哲学などが自国語ででけるようになっただす。本家の中国でさえこの日本製の漢語を使ってまふから、今さら漢字の著作権は俺のもんだい!と言へなくなりまひた。ビロ~~ン
つうことで、一時纏めをしておくと、言語は民族であり、文化であり、人間精神の大本であるってことですね。言葉が無ければ人間になれなかったと。最近、ヴィトゲンシュタインに関心を持ち始めましたです。デハデハ


 いまスレ漁ってたら、こんなんありますたあ:
「>設定ソフトのミスは、これはご迷惑をおかけしたユーザーには謝らなければならないですけれども、素早く対応できた。(三木谷)」 これを
「>設定ソフトのミスは素早く対応できたつもりですがご迷惑をおかけしたユーザーには謝らなければならない。」にしたら角が立たなかったろうに日本語ヘタ杉!イヤイヤ  
日本語文書では最後が結論ですから、そこで本心が出てしまうのですねぇ。この辺が英語と違って難しいところ。