5月4日(火)公園でまどろみつつ、哲学な休日をやり過ごす

 おっはよー。うす晴れ。今日も暖かくなりそうです。
さて、きょうは何処の公園に行こうかな。花の写真を一杯
撮ってこよう。でわでわ。











 森の木陰でドンジャラホイ♪ ぢゃなくって本を読んでたら
こんなん見っけましたぁ。ナイーブリアリズム(素朴実在論)に
よれば世界は五感で見ているとおり聞いているとおり感じている
とおりに在るのだあ!そしてそれを感じている自分は確かに在る
のだあ!と世界を主観と客観に分ける極常識的な世界観で、デカ
ルト以来の二元論的な世界観は極めて強固であーる。で、これに
異議申し立てたのがイギリス経験論で、経験によって与えられた
ものだけを信じていこうよね、と。すなわち働きとか作用だけか
ら始めて、その働きをする本体(主体)は経験できないから排除
しようかな?と。












 個人(主体)がまず在って、その個人が色々な経験をするのだ!
は間違いで、ホントは経験というのがまず在って、その一貫性が
意識の統一感を生むので個人がいると思わされるのだあ!とか。
これは赤ちゃんの発達を考えれば有る程度は頷けます。脳が固まっ
ていないうちは何物でもなーい。色々な経験がシナプスの形成を促進
し回りから学習してそのうちに自我が芽生えて自己意識がでける。














 目の前の現象が実在か?はたまた隠れた本性が具現化したのが
真の実在だ?とかの経験論と観念論の論争はギリシャ以前から
現代にまで尾を引きずっておりますね。















 現実には正確な円などなく、理想的な円の個別化が現実である。
桜は色々な形や色や種類があるが、桜の奥には変化しない理想の
桜があるから桜と言えるのだ。というのがプラトンイデア論
一方、アリストテレスは人間は母親からの質料(物質、肉体)に
父親からの形相(形や精神)が入ってでけるのだあ、と幾分科学
的ですぅ。ときおり居眠りしながら考えたが、イデアとか形相と
いうのは今で言うDNAぢゃねえのかな?永遠に受け継がれる変化の
奥にあるもの、それは遺伝子ですぅ。(玉虫の生物学的イデア論













 はぁあ〜〜〜あ。よく昼寝した。さて現実に戻って買い
物して帰ろかな。帰るのよそうかな?一杯飲んでこ。











 現実とは事物(桜とか人間とか円とか・・・)の中で変化しない
ものに付けた名前であーる。名前が付いたから存在するのであって
名前が無けりゃぁ無いも同然。(玉虫の唯名論
それぢゃ、名前を付けた者が創造主かよ!








アホンダラア!!!!!