4月30日(金)真に独立した学問なんてナインです、これホント

  こんにちは。概ね晴れ。気温中庸。街路では躑躅が鮮やか。

 建前と本音を使い分けるのが大人なのか?本音だけだと疲れるし、建前だけだとスカスカで危うい。世慣れたヒトはこれを上手く使い分けるとか。



 気候変動とは:

 IPCCのクライメイト・ゲート事件つうのがあって、日本学術会議もあんまし論評しないのも不自然だとの声に押されシンポジウムを開いた。

1.イギリスの気象学者がホッケースティック曲線つう急激に気温が上がるデータを捏造か?
2.ヒマラヤ氷河が2035年に消滅するってのはホントか?
3.海氷(氷山)が2040年に消失するってほんとか?等
数々の疑惑が噴出しますたよ。これも偏にIPCCの査閲体制が不備なのではないか?との疑惑を呼び起こしました。

 科学が巨大な政治経済の狭間に落ち込んだときに、どんな行動が取れるのか?を真摯に反省する態度は吉としよう。しかし、その結論は終始言い訳じみていることは確かですぅ。もともと学問をメイク・マネーに利用するのはグローバルな風潮ですが、本件はエネルギー各社(火力、原発、陽光などなど)の競争やロビー活動も激しくサイエンス フォー ソサイエティやサイエンス フォー ポリティクスの最前線に位置している状況にあります。

 しかし誤りは誰にでもあるとは言え、これらのケースはあまりにも恣意的で到底何次かの査閲を潜り抜けてきたとは思えないものです。ヒマラヤ氷河のケースではインドのある雑誌に氷河は2350年に消滅するという記事が載った事はあるらすい。しかし、これが2340年に間違えたと言うのなら単純ミスで済ませるが、2035年に消滅なんて書いたら著者も査読者も宇宙人ぢゃねえかい?ここら辺を未だにミスで突っ張ってるとこは確信犯ぢゃね。

 一説には、「脅威一定の法則」てなのを唱えて、核脅威が薄らいだ頃から環境脅威が始まったとかの穿った見方をする御仁までおりまする。真に科学問題として捉えるのなら「太陽活動」の影響は看過せざるべからず、つう方もいます。細分化された科学の各分野で手法も見解も異なるのなら、もっと融合した学際的な活動が必要なのでは?という意見が叫ばれてから久しいが、温暖化問題は未だ気象学者の独壇場。地球シミュレーションに疑義を唱える人々も大勢いますねぇ。

 かかる状況の中で比較的わだすのこころを捉えたのは、名大、草野氏の言説だな。曰く、科学議論と社会論争を区別せよ、シミュレーションの信頼性と方法論を精査せよ、人為変動と自然変動をバランスせよ、などなど江守氏も真っ青な見解。IPCC金科玉条にして絶対視してるから間違いがあっても
訂正し難いのだ!との後先逆のような擁護もあったな。

 ま、科学者と言えども人間、思惑もあれば建前もある。思想信条が結論に影響しないとは言い難い。であれば、その査閲体制(遡れば委員選出システムも)を真摯に見直さねば、巨大な国際政治・経済を動かす基準とは成り得ないんぢゃねーのかな??

 正の放射強制力は地上付近の温度を下げる効果は確かにあるが、それがプライマリーかどうか?ってことだしょ。外部強制力の長期応答はシミュレーション以前に、地表付近はガチでしょ?とかの反論はあろうかと思います。が、科学問題が社会問題になったときの難しさは、ガリレオコペルニクスダーウィンの昔から真実よりも世の大勢に押し流されてしまうってことだすな。

 予測の不確実性を認識したのなら、社会の激変(例えばエネルギー政策の大転換とか)を志向するより、その社会の弱点の補強や、どちらに振れても最小限の投資で適応できる回復性アプローチを取るべきではなかろうか?ってモデレートな意見に共感を覚えたのれすぅ。

 しかし学問としても、気象環境学 VS 太陽地球環境学の対決ってな様相を呈してきますたね。この辺の真面目な論争を望みます。一方、人文系の諸学、倫理、社会、政治、経済、政策、外交、国際関係などなどの諸学を統合した議論も必要だとカンジタだ。

 デワデワ