6月8日(月) 念仏唱えれるくらいには回復してきたZO-

 こんにちは。曇りときおり霧雨。涼しい。




 自転車って危ないね。知人の友人が自転車で転げて意識不明
に陥ったそうだ。飲酒運転はよそうと思いました。肘とか脛に
無数の傷があるぼくだからね。でもこれだけは言っておこう。
長年運転してきたけど自動車でも自転車でも事故は一回も無い
のだ。違反は山のようにしてるけどね。テヘ






 さて、今日は少し気分がイイから哲ガクるか。だいたい反省
してみると僕のブログは海外るか、科学るか、政治るか、エコ
るか、哲学るかだな。自分が面白い話題は心と脳と進化と生命
の問題だけど、これは果てしがなくて結論もなーい。






 本当は哲学にも結論なんか無いんだけどね。千人いたら千の
哲学があるとか。だから自分に合ったのを選んでそれを指針に
生きればイイのさ。でも、知らない考え方がぎょーさんあって
尽きることがありませんねぇ。これはどんな分野でも同じこと
だと思われまするが。







 場所の論理:「自己のうちに自己を映す自覚の思想と、
述語が主語を包摂するという判断の基本形式が結合したもの」
(西田の認識論)




 この述語論理とは例えば:「タマムシは昆虫である」と言う
とき、主語(タマムシ)は述語(昆虫である)の特殊化であり、
限定である。とする立場です。


タマムシは     青い
この服は      青い
この車は      青い
この屋根は     青い


述語「青い」を特殊化し個別に限定したものが「主語」です。






 一方、アリストテレス以来の伝統は主語の論理で:主語である
タマムシのうちに昆虫という性質がすでに内属している。という
見かたです。この方が普通かな?

このリンゴは     青い
このリンゴは     丸い
このリンゴは     甘い
このリンゴは     大きい


主語のリンゴが実体であり、述語はその主語に依存した性質で
ある。という包摂判断になる。





 ま、諸君はどっちでもイイとお思いでしょうが、この違いが
実は大きいのです。結局、何だかんだ言っても我が思念は私しか
把握できないのですから、その究極的な個物から発して普遍に
至るには、超越的な述語面しかないのですね。


 つまり、絶対無の特殊化、自己限定が我であると。ここから
真の自己探求が始まります。ねね、分かったようで判らないで
しょ?アハハ   これが所謂自己満足的な解釈で、これは
内心の問題ですから、誰にも理解されなくてもイイのれーす!


さて、では諸君、気分良く、おやすみー。