9月7日(土)白露(草葉に露が白く見えるようになる頃)に理屈っぽくなってミタ

 うす曇り。23℃〜28℃。湿気多し。でも露ができたとはつゆ知らず。ビオトープにトンボが卵を産みにきた。きっとヤゴになるでしょう。




 

 ちと理屈っぽい判断の裏腹:

 ある判断が経験に依存するのかしないのか?数学なんかはあんまし経験に依存しないで数覚や論理プロセスで判断でけます。一般に判断は分析判断と綜合判断に分かれます。

 分析判断とは、主語の概念に述語の内容が含まれているような命題であり、「独身者は妻を持っていない」というような一見自明な言明ですが経験には依存しません。おもすろい例では「公衆便所はみんなのものです。」とか「うちの子は悪いことさえしなければ良い子なのだが。」つうような判断だす。もそっと複雑な命題でも、矛盾律*1で真偽を言うことができる判断です。

 一方、総合判断とは経験により主語の概念を拡張するような判断で、「地球は青い」とか「昨日は雨だった」のような命題は、人間が宇宙にでられるようになったり昨日の雨を経験してはじめて言えることです。又総合判断では矛盾率が破られることがあります。「ある者は若者であり若者ではない。」は時間概念を持ち込めば普通にありえます。人は時が経てば老人になりますから。しかし意味ある概念の拡張を行う綜合判断は常に経験的であるのか?そこにカントは、時間、構想力、統覚と言ふ3つの原則を持ち込んで、経験から離れた総合判断の可能性を探りますただ。



 そういへば、金剛教に「即非の論理」ってのがあってですね、「山は山であって、山は山ではない。それ故に山である。」つうような矛盾律を述べてます。ま、山をXと一般化して「 XはXだと云うのは、XはXでない、故に、X はXである。」というような非論理的な記述となりまふ。山の例で言えば、デコボコの土地があったとして、そこに山というものができるのは岡や裾野や平野という山では無いものを識別できて(すなわち非山ができて)はじめて山が成り立つのであーる!つうことかな?白も黒があって成り立つ。混ざればみんな灰色だすぅ。

 

 即ち、ちみは他人がいて、はじめてちみになれるんす。ブサヨネトウヨがいてはじめて成り立つことを認識し、大切に扱いましょうね。勿論ネトウヨブサヨを大切に。ひょっとしてこれは、ダイバーシティが大切な理由かもしれんですねィ。ブハッ

*1:「Aは Bであり、かつBでない」は両立しないこと。