懐疑がもたらすもの


こんばんは。晴れときどき曇り。ぽっかぽか。
ユリカモメのおつむが真っ黒な夏羽に変ってた。





ミュンヒハウゼンのトリレンマ」つうのがあって、
ある命題Pの根拠づけを行おうとすると次の3つのどれかになる。



(1)根拠の根拠をもとめて無限後退する(幼児の、なんでなのん?)
(2)根拠の探求がどこかで循環する(働くとはお仕事すること)
(3)根拠の探求がどこかで独断的な主張に行き着く。



このいずれの場合にもPを合理的に根拠づけることは出来ない。
ゆえに、命題Pの合理的な根拠付けは不可能である。つうの。






「そうかもしれないし、そうでないのかもしれない」と判断を停止
したのはピュロンさん。この世に絶対的なものはない。現実は移ろい
行き一つとしてとどまる物無し、つう無常観で全て相対化して判断
停止(エポケーという)してココロの平安(アタラキシア)を得たと
いう。ものに拘泥せず、人々の常識に逆らわずに生き、長命をまっと
うした生き方は、懐疑論とはいえ無為自然荘子に通じるのかも。



 


一方、ルネ・デカルトは「方法的懐疑」によって、常識、感覚、数学
、神など疑わしいものは全て消去し、最後にのこったのは「考える
私」であるとして、学問の基礎を確立した。しかし、変な精神論も
遺してしまったようだ。精神と身体の二元分離とか。つまり「私」と
は、考え疑っている私(認識主観)であって、身体を持っている現実
の私が置き去りにされてしまったような。この影響は現代まで続いて
いますが、脳科学デカルトに逆らってどー進展するのかにかかって
いるのかも。「心ー脳」問題が取り沙汰される所以です。







とか、いちおう「懐疑」っつうのが哲学のコアらすいんで書いといた。


しかし紫外線がみえるミツバチの世界とか超音波で空間を立体的に
掴むコウモリの世界とか、どんな世界なんだろか?と想像すら出来ん
つうのもおもすろいな。では、夢の世界に旅立とう。おやすみい。