意識の問題を意識するとキリが無い


こんばんは。晴れときどき曇り。温か。



夢にしか出てこない場所って確かにありますね。現実の場所をビミョウ
に無意識が変形したようなところ。そういう意味では夢の世界も一貫性
はあります。意識は連想に乗って運ばれる、流れにたゆたう笹船のよう。




脳内をfMRIなんかで覗けるようになったから、まず、指し当たっては
「意識の源」なんかが掴めたらおもすろそう。入眠時の活動野の変化や
ノンREM睡眠時に無意識になった時の活動領域探検とか。
脳幹には呼吸、心臓、胃腸などの生命維持に欠かせない自発運動調整を
行っている部位がありますが、ここの脳幹網様態から大脳に刺戟が行わ
れていて、ここにダメージを受けると昏睡状態に陥ることから、意識の
源はここに在るのでは?という学説もあるにはあります。






意識が自分か自分が意識か。意識が無ければ人として死んでいると同じ
なのか?ようやく、そのとば口にたどり着いたと言えるでしょう。
そう言えば、以前「死の瞬間を科学しよう」とか呼びかけた人がいて、
医者の反対でポッシャってしまったが、その人は動脈瘤破裂であっさり
身罷られたから、やはしこういう問題は永遠に非可逆なんだろうな。
検証できないことは、いくらでも想像に委ねられますから、人間をやっ
てられるんでしょうねえ。イメージは自由ですから。






そういえば、「他の人は俺が見てる”赤色”を俺と同じように感じてい
るのだろうか?」とか悩んでいるアホがいましたが、これも同じような
検証不可能問題ですね。つうか、どーでもいいことの部類。悩むために
悩んでいるヒマ人って結構いるものです。こういうどーでも良いところ
よりも「人はなぜ子犬を可愛いと思うのだろうか?」とか、もっと
共通性のある、普遍的な意識で悩めばいいのになあ、とか思いました。
感覚の問題はそれが及ぼす影響で推し量るしかないと思うんだけどね。




共通意識つうのは自他未分や個と多の合一の要のような気もしますね。
ではでは、お休みなさい。また明日。