1月23日(月)人と比較しないと気が付かないこともあります。

 概ね曇り、朝のうち一時雨。2.8℃~6.1℃、59%~85%。寒波、カンパ、カンパッパ!

 

 情動とは:感情が動くことなり。

 記憶にはイロエロな種類がありまふが、過去の出来事を記憶するエピソード記憶というものがありまふ。こりは感情によってスタンピングされるので、感情が大きく動かされた出来事がはっきりと記憶されるそーです。すなわち情動が大きければ大きいほどハッキリと記憶されるんですぅ。

 歳を取ると脳細胞も衰えて情動が少なくなるので、エピソード記憶も少なくなりまふ。こりが歳を取ると時間が短く感じれる一因ではないのんか?とかよーに愚考する次第です。イディオ・サヴァンの人には小さいころからのエピソードをすべて記憶している人がいるそーですが、その人は人間はみんなこんなものだろうと思てたので、自分に特殊な能力があるとは思てなかったそーです。おまけにエピソード記憶以外の記憶は並みだったので、学校の成績も普通でした。

 人間は自分が持っている能力はみなも持っていると思い込みがちばので、ちみたちにも驚くような特殊能力が備わっているかもよ。時には人に話して確認するよろし。ジャンジャン

 

1月22日(日)旧元日。中国では春節♪さかなクンなら五五(ぎょぎょ!)と言うかも。

 概ね寒曇り時々晴れ間。1.7℃~8.9℃、34%。2100歩。

 下剋上の大相撲もとうとう決着す。若手を退けて貴景勝が久しぶりに大関として優勝!豊昇龍は怪我を押して気力の8勝目。朝の山は十両優勝で来場所は幕内に上がれるかな♪

 

 偶然と必然の狭間:五が多いわけ。

 例えば人間の指が4本だったら、指折り数える起源は10進数ではなくして、8進数になっていたでしょう。そーすれば現代のディジタル社会にもう少し馴染みやすかったかも知れません♪鳥類は4指が基本だと言うから、鳥が進化した鳥人間がいたらコンピュータ社会の到来はもっと早かったかも。(いわゆる、隕石が落ちないで恐竜がそのまま知性体に進化した場合です。)

 五指の制約かどーか、五を使う表現はかなーりぎょうさんおじゃりまふ。五感、五味、五臓、五体などはよく使われます。仏教や儒教でも五を使った説が多いですぅ。五行説(木、火、土、金、水)、五輪説(地、水、火、風、空)などは曜日や塔として残ってまふ。五倫(親、義、別、序、信)や五常(仁、義、礼、智、信)などは時代劇に出てくるかも?

 またイロエロな熟語でも、五輪競技や五大陸、富士五湖、五穀豊穣、五節句、そうそう五劫の擦り切れなんてパイポパイポのシューリンンガンもありましたねぇ♪ちなみに五は自身と一しか約数を持たない素数でもあるんですぅ。ジャンジャン

 

 

1月21日(土)款冬華(ふきのはなさく)。ハードな問題は再帰的である。

 薄く雲の覆う寒晴れ。3.2℃~9.0℃、26%。2400歩。北の風強し。乾燥注意!

 

 リカーシヴ(再帰的)とは:

 事物の定義がそれ自体に返って来ることを言ふ。プログラミングでは、プログラムの中でそのプログラム自身を呼び出す動作を言ふ。この再帰動作は時々矛盾を孕むことがありまふ。

 分析哲学では「言語」自体の研究が重要です。が、その言語の研究を言語を以ってして行うところに再帰性が感じれまふ。堂々巡りの予感がしますね。論理学をロジックを以って研究するときにも同様の困難性を感じます。研究する対象と手段がループして収束しないかも?

 意識の問題を意識で研究するのも同じかな?意識(主観、クオリア)を意識で対象化すると、期せずしてそれは客観と化してしまいまふ。すなわち主観たる意識が客観化された主観となり、内観した本当の主観とは異なってしまうんすよ。

 これらの問題をハードプロブレムといって、普通の(普通ってなんや?)方法論では決して解けないであろうと考えられます。そこで登場するのが「絶対矛盾的自己同一」という有り難い呪文なのかな?

 おまけに意識の研究は、「意識」が拠って来る「前意識」や「無意識」が意識すらできないのですから、二重の困難性がありまふ。近年流行っている「統合情報理論(IIT)」などで意識を客観化しても、そんなのは偽の意識なんすね、ザンネン

 

 

1月20日(金)大寒。備忘:相即律とは。キッタロー♪ナムナム

 快晴!3.9℃~12.3℃、37%。気温っや緩む。

 コロナ感染低減傾向が著しい。がっ、いつもの傾向で、重症者数や死亡数は高止まり。

 

 一則多、多則一:

 個別の一と普遍の多は溶け合えば同一である。抽象的概念は具体個別が無ければ成り立たないし、個別具体はそれぞれ離散して存在しているわけではない。抽象と具体はそれぞれがそれぞれを成り立たせているのであーる。具体無き抽象はないし、抽象無くしては具体は発散する。

 こりは部分と全体の関係に敷衍する意見もあるが、部分は多で全体は一と言へるのか?近年、部分の集合が必ずしも全体に回収されるのか?っつう意見もあり、必ずしもこの意見は定説とは言えんぞな、もし。事物は還元して行くと全体像が胡散霧消することもありまふ。科学的還元主義が見直されつつある所以だすぅ。ドンモドモドモ

1月19日(木)懐さぶし、信頼は人間世界の基本なり。かな?

 概ね寒曇り、午前中は少し陽射し。2.7℃~9.1℃、43%。3200歩。大寒に向けてさぶさつのる。来週はもっとさむうなるど。

 

 お足とは:お金のことなり。

 お足の流れの反対方向にブツやサービスが流れるのですから、お足を秘蔵してたら経済は回りません。折角足がある「お足」なのに使わなければ無いもおんなじ。

 つう原理原則から考えて、なぜお足があるのに使わないのか?それは不安があるからですね。お足がなければ何の保証もないとすれば、みんながお足を貯め込むは必定!企業も個人もお足を退蔵しまふ。そして日銀がいくら異次元の金融緩和をしても、お足は経済社会に回りまへん。

 家計の持つ金融資産は2000兆円に上りますが、この大半は死蔵されちょりもす。先行き不安だと老後の2000マソ円くらいは必要そーだからです。国が老後を保証して、下々に老後の不安を持たせなければ、「宵越しのお足はもたねえ!」ってな気風の良さを発揮できるにね。自己責任で何の保証もなければ、頼るのはお金ばかし也!ってな理屈でお足が回らないのは理解できまふ。

 経済はセンティメントで回ると♪不安なら溜め込む、イケイケなら投資すると。社会も同様に不安なら委縮し、セーフティネットがあれば拡大する。こりは如何なる社会と言えども当てはまる原理原則だすぅ。異次元の金融緩和をしたかったのなら、人々のココロを不安から解放するのが先決だったんじゃありまへんかい?そーすれば2000兆円の何割かは市場に回った筈!日銀が刷るお札よりか強力だった気がしませんか?

 うーん。でも信用ってのはそー簡単に増減しませんから、普段からの行いが持続的でないと効果が薄いのかな?「信なくして立たず」から、「騙して立つ!」が続くと、民心は混乱しますからねィ。ドモドモドンモ

 

 

1月18日(水)初観音。無趣味が趣味とは寂しいな♪

 晴れときどき曇り。3.8℃~12.4℃、42%。7400歩。気温やや緩む。

 

 昼飲み:

 日比谷公園に集合して昼飲み。松本楼のオープンテラスにて地ビールを痛飲す。久しぶりに会ったので近況などを伝え合ったが、約1名の者はコロナワクチン副反応のようなものに悩まされているとか。年末の5回目の接種をしたあと、全身に発疹が出て、筋肉痛などの炎症反応と免疫細胞のかなりの増加がみられて、まだ収まっていないとのことで、今日はビール1杯を舐めるように飲んでました。

 最近話題の少子化ウクライナ問題、エネルギー問題、軍事予算倍増など話題はあちこちに飛べども、国家のベスト&ブライテストが思案しても良い案がないのに、市井のポンコツに解決案など望むべくも無し。各自の意見の違いを確認するのみ。それでも、酒飲んで放言するのはいささか楽しいもんだすぅ。

 天下国家の話しをしてても、天下国家側にはなーんも影響しないところが物悲しい。で、各人の趣味の話に話題は転じて、約1名の者は歴史オタクにて「日本に火縄銃が伝来して以来数百年間、火縄銃には銃床が無かったのは何故か?」などと言い出した。そー言えば、種子島などが根元がころっと丸いだけで、肩に当てる銃床はあーりまへん。このしとは翻訳も趣味にしていて、先般本を出しますただ。

 他の約1名の者は歩くのが趣味で、1日8kmは歩くんだと。それで最近スマフォで写真を撮ると植物や昆虫の名前が出てくるアプリで楽しんでいるんだと。こりはいい趣味ですねィ♪また他の約1名のものは車で近郊を旅行して、写真を趣味にしてるんだと。あとテニスをやり過ぎて股関節を痛めたなどスポーツ自慢でもある。無趣味な吾輩は黙して語らず、ただ聞き流すのみ。

 改めてわが身を振り返ると、なーんもしていないことが身に染みる。昔は乗馬、ドライブ、釣り、絵画、スキー、スケート、音楽鑑賞など多趣味な方であったが、年々行動の幅が狭まって、ついには無為徒食に至った。スウィミングミングも止めちゃったし、読書もあんまししてない。な、なんとかせにゃならん!と急に焦っても無理無駄むら。

 ま、考えるのは少しやってるような希ガスる。常識と思われているもののそもそもに立ち返って考えるとか。でも、堂々巡りが多いから、すべて私的言語の範疇なのかな?

 それでも一つだけ固い信念はありまふ。曰く:「人間は必ずミスをする。機械は必ず毀れる。ソフトには必ずバグがある。」と。最近、原発を60年使おう!とか、スパコンやAIを人間より信用したり、「わたしはミスしません」に騙されたりする例が多いのは、そもそもの原理に立ち返らないからなんですぅ。とかくどくど述べたのは酔いの為せるわざなり。うぃ~、ひっく♪

 

 

1月17日(火)土用。進歩、シンポ、シンポッポ♪

 終日寒曇り、夕方少し薄日射す。2.1℃~7.6℃、46%。1500歩。おんもは結構さぶいですぅ。ずてぃんしゃに乗るようになってから、歩数があんまし伸びません。便利だが良し悪しですね。

 

 進歩と軋轢とは:

 進歩には必ず軋轢が伴います。大きな進歩(イノベーション?)には大きな軋轢が伴います。進歩は現状を変えるんですから、既得権益層には大きな変化はあって欲しくないんすね。逆に言えば軋轢の無い施策にはイノベーションなど起こり得ないと言えるデス。

 そもそもこの世界は全て連環の中にありますから、他に影響を与えない変化などあろう筈があーりまへん。良い方向にせよ悪い方向にせよ変化は必ず周囲に影響を与えます。良い悪いも、立場や既得権により変わります。いい人ぶってたら永遠に改革などできません。かな?

 「断じてこれを行えば鬼神もこれを避ける」とか言いますが、この辺の事情を現した諺です。列車輸送に反対した幌馬車輸送とか、電信に反対した飛脚組合とか、サインに反対する印鑑業者とかがいても、結局は技術革新には逆らえないんですぅ。でも前の職業でも人々がそれで生活してたわけですから、業種転換をソフトランディングさせるためのセイフティネットは必要です。

 すべてを自由競争、自己責任に任せっきりでは正しい神の手も働きません。何のために進歩したいのか?その大本を辿れば、それは人々が便利で安全で安心して暮らしたいからです。進歩至上主義では決して心の豊かな社会は生まれません。かな?