4月30日(月)4月30日(月)牡丹華(ぼたんはなさく)ま、しょうがないか?という国民性。

 薄晴れのち薄曇り。17℃〜26℃、52%。南風強し。花粉少ない。今年は季節が早すぎて、牡丹はとっくに散ってしまいました。

 親からの話ですが、幼児の頃より生き物が大好きだったみたいですぅ。水たまりがあると覗いて見たり、石があるとひっくり返して下を調べると。草叢では葉っぱの下を探っていると。虫たちがぞわぞわ湧き出てくる季節は楽しいですねぇ♪






 現実を以って尊しと成す:起こってしまったことは良いことか?

 日本人の傾向として、一端事実になったものごとは正しいんであーると思い込みます。だから政権はゴリ押ししても悪法を通して既成事実化します。現実優先が行き過ぎると、トンデモナイ論理が横行します。「仮定の質問には答えっれませーん。」なんてトボケた答弁をする大臣まで出てきました。未来のことは誰も分かりません。先のことを質問する場やいは、必ず仮定が入ります。例えば、「仮に明日雨が降ったら、遠足は中止しますか?」と親が校長さんに聞いたら、「仮定の質問には、答えれませーん。」なんてトボケれるのかな?普通は例え仮定でも、「仮に明日雨が降っても、小降りなら遠足を決行します。」くらいは答えるでしょ?普通の人なら。

 社会進化論学者も、慣習で今まで残っているものは、適応の結果だから正しいんであーる!なんて主張しがちですね。適者生存を慣習や制度にまで拡大解釈しているわけでやんすよ。この論理を使えば、今ある慣習や制度はみんな正しいということになりまふ。

 そもそも適応的であるという、根本のところでその理解が間違っています。現存する形質や制度の中には、過去や現在の環境に適応して残ったものも勿論あります。しかし進化というものは未来に対しても、ちゃんと備えているんですね。未来の環境は、どのようなものに成るかは誰も分かりません。ですから、多様な形質を用意してどんな変化があっても絶滅しない、というのも適応的なんです。今ある形質の中には、今の環境に対しては全く意味のない様々な多様性を含んでいます。逆に、過剰適応しちゃうと、それは絶滅危惧種であろうゆわれまふ。

 ここんとこを間違えて理解すると、「事実を以って、当為(あるべき姿)と成す」という自然主義的誤謬にハマることになるんですぅ。ども。







 う〜む。ようやく満月が見えたから満足♪