9月28日(金)ちょっと小難しい感慨

 うす曇りときにうす晴れ。20℃/24℃(84%/70%)。気温は低めだが湿度高し。台風17号が直角くんの懼れ。さて、どーしようかなぁ。



 哲学女子たちと少し話した。素直な目をしているので感心。話をするときはまづ「立場」というものを無くさないと論争になる。深く納得。何かに固着するとコミュニケーションを阻害し、話し合いが争いに化ける。それで勝っても何の意味も価値もナインだど。ネットで村上春樹の「安酒論争」賑わう。高級なレッテルのようにも思えまふが、善悪の彼岸。これも深く自省するところ有り。



 3.11以来、科学技術に対して硬軟両様の見方あり。科学的とは何か?素人から見れば判断の絶対的な基準で、科学者から見れば未知の事象の掴み方。分かっていることと分かっていないこと、ここまでは分かっていることを曖昧に発言すれば(臨界が無いとは必ずしも言えない!とか)、科学信者は都合のいい方に解釈しまふ。科学で解明されたことが多くなるほど未知との境界も拡がり、未解決問題が増えると。分からないことを分からないと正直に言ふと、「お前らは何の為に飯を食っているのだ!」となじられる。これ全て他責の仕業なり。「どーすればわたしはしやわせになれるのん?」と問われた哲学者が「そんなこたーわかりまへん」と答えた時の反応と同じです。専門家尊崇の念がつおいほど、専門家を詰りまふ。科学を宗教の領域から剥がして、政治経済社会学と同じ地平に戻すことが肝要かと。科学と芸術、科学と社会の連携が益々重要となる所以です。つう意味では科学万能主義者は社会の害悪かもしれまへんでぇ。出来たからと無暗に使いたがる技術万能主義者も社会の害悪化も知れまへんでぇ。お客様は神様だとモチベーション万能主義のマーケティングも社会の害悪かも知れまへんでぇ。評価軸が多ければイイってもんでもなーい。でも損か得か、役に立つか立たないかっつうシンプルな評価軸だけじゃ危ふい。やはし自他の壁を乗り越えて共感に基づいたコミュニティーを築くには、絶え間ない常識の壁壊しが必要でしょうか?でわ、どーやって? それは正解を求めるのではなく、より良い「問い」を求めることでしょう。か?か?か? その人の、問いの中にこそ真実が現前すると。アア