書評:「うるさい日本の私」(中島 義道)

 ふと気が付いたら返却日がとうに過ぎていました。だいぶ前に1章だけ読んで放り出していたのですが、一気に読んでみると意外に面白い。なんて言うとよしみっちゃんは「なんつう安易な野郎だ!」とか怒るかもしれない。それほどまでに身体性の無い言辞を嫌うのですね。繊細にも程があるっ!とは思えども、個々人の感受性はみんな違うからなあ。
でも、マイナーな感受性を蔑にすれば芸術も哲学も文学も薄っぺらなものになりそ。そうそう功利的な社会主義国の芸術のように。

 目次を一瞥すると:
1. 言葉の氾濫と空転
2. 機械音地獄
3. 轟音を浴びる人々の群れ
4. 「優しさ」という名の暴力
5. 「察する」美学から「語る」美学へ

 1章2章ではあらゆる場所での文化騒音の実例を挙げて取り上げている。乗り物の車内放送や駅やエスカレーターの注意放送、銀行やデパートの構内放送、販売店の宣伝放送や住宅地の選挙カーや物売りスピーカー、ばかりではなく田舎での防災放送や観光地での案内やBGMなど日本全国どこに行ってもテープ音、スピーカー音が満ちあふれている。「ありがとうございます」、「・・・はおやめ下さい」、「・・・にご注意下さい」、「・・・をお控え下さい」という挨拶、注意、提言、懇請の暴力的な「アアセイ・コウセイ♪」に耐えられない感性の人をこれでもかと取り上げているのです。

 3章ではそれでもクレームが少しは戦果を挙げていること、でもそれらのクレームを言う人はごく少数にすぎないことが述べられております。ここまではそんなに面白くない。よしみっちゃんの感受性は理解できますが、共感する人はそんなに多くないような気がします。

 ぼくが共感したのは4章です。この世の害悪はとても美しいこと優しいこと良いことの裏に隠れているのではあるまいか?というぼくの予感を具現化してより詳細に語ってくれているのです。「優しい人」は他人に優しくしようとするが、他人にも優しさを求める。それが実現しないと自他を責めて、無言の裁きを行うというコミュニケーション断絶過程をこまごまと描写し、結局傷つけた、傷ついたの自責の念で身動きが取れなくなると。優しさとは実は優しくないのです。「思いやり」でアアセヨ・コウセヨと自己中心者を責める「優しい」人々。「自分がされたくないことを、他者にするな!」という倫理の黄金律。これはマジョリティの理論だと、他人を自分の投影だとみる態度を批判する。公共空間でのプライベートな音とパブリックな音に対するマジョリティの差別を実感した繊細な人のこころの叫び。これは私的に注意すると排除されるが、公共の権力を背景に幼児を諭すような幼稚な注意が許容されるところに現れる公共空間の非対称性に如実に示されている。しかしマジョリティは管理されたい人々、アアセヨ・コウセヨ中毒者、一律な規制に賛同し、少数者に苦痛を与える鈍感と傲慢を併せ持つ者!とこの辺りはもう言いたい放題。道徳的な管理大好き人間の代表に:校長先生、大企業の社長さん、高級官僚やお坊さんを挙げている。

 このような日本文化に起因する「音漬け社会」解体の処方として第5章で提案しているのは「語る」ことであった。思いやり、優しさ、察するという美風に依拠する発信者に、まったく「悪い」と言う意識がないのです。ですから、なにしろ私的に語ること、語ることで意思を明確に伝えることが現状を打破する唯一の方法だと。惻隠の情、察することは美風であったが、これがひいては語るものを排除する教育や語らない構造をもたらし、優しさがいじめを産出する構造を生み出していると。みんなが言い方に気を付けている内に語り方が分からなくなってしまったのが、公共放送蔓延の原因であると言い切った。ふむ。察するのが日本人の美意識であり行動規範の根幹であった長い間の抑制で、パブリックな場での発言に強力なブレーキがかかるようになってしまった。

 発言の内容よりもいった「場」が問題になる構造。自分の個人的な立場から何かを語ることへの抑制。これはあらゆるところに見受けられる。授業や講演、車内や広場などなど。
言い方に気をつけろ!という言辞は語る内容よりも語り方に細かいルールを課した敬語社会を作り出す。そして「いじめ」は「優しさ」や「思いやり」や「耐える事」という日本人の美徳それ自体が作り出したものである!というところまで飛躍したのは、まさに経験者が語っているのですから、無慮に否定はできません。

 自分の最も関心のあることについて、その根源に遡って語るということが知を愛するフィロ・ソフィだと思えば、これも立派な、いやそれ以上に地に足の着いた身体性のある哲学だっ!とえらく感心してしまったから、「うるさい日本の私、それから」も読んでみようかと思った。ふと巻末のあとがきを眺むれば、1996年6月となっていた。あいや〜!16年経っても、日本の文化騒音は全く同じじゃん!これじゃよしみっちゃんも嘆くわな。ま、これも日本文化の一部なんだから、どこかに良いところもあるべえよ。何ごとも裏腹なんすから。しかし有楽町はいざ知らず、銀座は未だに低騒音なんだから、やりようによっては低騒音地帯は広げられるかもね。神社仏閣や自然まで文化騒音に犯されては、いくら鈍感な玉虫でも堪りまへんえ。どもども。


追記:
 こういう書き方はまだ慣れていないから、稚拙でもあるし言い忘れたところも多々あります。どうかご容赦、ご宥恕のほどを。
 彼の繊細にして感受性溢れたる感性が幾分か凡人にも感じられるのは、4章の「キリッポン国」のくだり。例えばキリスト教を信奉したる公共放送がのべつまくなく、「悔い改めなさ〜い」、「今日も神を敬いご意志のままに生きましょう」、「お客様に申し上げます、異教徒には注意しましょう。次は〜です」とあらゆる公共空間で放送されていたらどう思うのか?これは異教徒にも多少実感がわきます。キリッポン国のマジョリティは多分なんにも違和感を感じナインだよ。徒な価値観の押し付けは、それと同等なんだと。
 こういう公共騒音の氾濫に異議を唱えるのは、欧州からの帰国組なんだと。よしみっちゃん自身はウイ〜ンに居たしね。パリは公共空間の規制は建物の高さから景観までかなり厳しいから、騒音も自主規制してるってのは理解できる。大音響で騒ぐのはシックじゃないしね。アメリカは宣伝騒音はあるところにはある。シンガポールは英国的でスピーカ騒音は少ない方。香港は公共騒音よりも私的騒音(電車やバスの中での携帯や大声での会話など)が満ち溢れている。北京はスピーカ騒音がだいぶ増えてきました。でも、私的騒音も同程度に高いです。こう見ると高公共騒音と低私的騒音のアンバランスは日本特有の風景かもね。なんども言うけど、これはこれで良いところがあるんだよ、きっとね。