10月11日(土)感想を書いてたら、哲学の迷路に

 薄雲の高い秋空の晴れ。19℃〜23℃、46%。街路樹の紅葉が始まるころ。



 最近の物理学では、相対論とか量子論とかの常識を覆すような理論が少ないな。積み上げ型の大規模科学が主流になってきたからだろうか?そういう意味では生命科学、心の科学が最後のフロンティアかも知れんですぅ。








 飛鳥京跡で変な坏(さかずき?)が見つかったとか:

 「この坏を取った者には災いが起こるぞよ」とか漢文と万葉仮名で書いて、盗難を防いだと(だいたい泥棒に漢文が読めるのか?という想定もすごいよね)。日本の言霊は書き物が多いです。耳なし芳市の話とか、書いた言葉が力を持ちます。これは中国も同じで戦の督励はみな「出師の表」などの書き言葉です。日本もこの伝統があり令旨とか檄文で士気を鼓舞します。一方ヨーロッパはカエサルからナポレオン、ヒットラーに至るまで演説(音声による話し言葉)が主体です。これはかなり根深い文化的な相違ですね。

 まず「光あれ」という神の発声から全ての存在が始まったとされる創世記以来の伝統なのかな?カオスを秩序という枠に嵌めるには、話し言葉が重要であると。すかす、話し言葉は発声された途端に消えていきますから、今ここに現前する実体の痕跡に杉ないとする考え方もあります。これは中世神学の影響が隠れて入り込んでいる現代哲学を再構築する試みです(デリダ?)。

 一方、アジアではメソポタミア、古代中国を始め言語は表意文字が主流でしたから、言霊は呪術などと結託して書き言葉の中に入り込みました。すなわち、音声というよりも形としての象徴が尊ばれたのれすね。表音文字は音声言語の写しだとの考え方もあり、表意文字とはその根源においてかなりの隔たりがあります。どちらがイイのかっ?と言ふ価値観を抜きに比較しても、音楽が好きか絵画が好きか、の文化的源流にまで遡りますが、「芸術の始まりは洞窟壁画だよね!」つうのと「いやいや、芸術は求愛の歌からはじまったんだよ♪」という意見までイロエロあります。しかし、究極の存在は音(声)か記録(文字)かというのは、けっこう文明的に深い根を持つものでありまふ。(玉虫の文明論より)







 ついでにメルロ=ポンティの表現観:

 言語、絵画、音楽で世界を把握・表現する階層性について、次のような順番を付けている。

 世界の大本には、生々しい無言の経験、筆舌に尽くせない生の感覚がある→音楽はその源泉に余りにも近くくっつき過ぎているので、その渦動以外のものを描き出すことはできない→絵画は実体から距離を置いて見る作業なので、行動から離れた表現が可能になる→言葉を操る作家や哲学者は、そもそも言葉というバイアスがあるので、中立を装って、語る人間としての責任から逃れられない。ふむ、立場の表明や行動が必要なのかよ!厳しいな。

 而して、ことばから逆の順で、この階層化した殻を剥がしていけば、生々しい無言の経験にたどり着けるのか?と問われれば、世界はそがいに単純なものではなーい!・・・永遠に表現し尽せないからこそ芸術や哲学があるってこと?・・・それを言っちゃあおしまいよ、それをやっちゃあおしまいよ、つうことは沢山あるような希ガスる。でもそれをやらないと先へ進めないのも事実。んじゃ、言葉やめますか、人間やめますか。




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