8月27日(月)物知りの世間知らず

 引き続き真夏晴れ。33℃。積乱雲が林立する夏空。ヘロヘロ


 ネットをググるとたいていの浅い知識は取り出せます。辞書や辞典がなくても手軽に膨大な知識にアクセスできます。でもみんなが頭が良くなったとは思えない。オタクの屁理屈ネタになるくらいですぅ。
 「物知りにして、物の縁を知らず」とは諭吉さんのお言葉。縁とは仏教用語でリレーションシップ(関係性、つながり)のことですね。個別の専門性には詳しくても、それを統合する学際的な知恵には乏しいとか。あるいは単発の知識で何にも応用できないとか。あるいはその知識が自分や社会にとってどのような意味を持つのかに無関心とか。ま、学者、官僚、法曹、メディアなどの知識層が押しなべて陥っている不調の原因がこの「縁」の無理解にあるのだと思いますです。「人間」にしてからが、人の間のつながりを意味しているのです。孤立していたら人間ではあーりまへん。とか理屈をかましたところで:良いアイデアはどーすればでるのか?
 人間が普段何気なく暮らしていけるのは、実は無意識で色々な自動行動をしているからなんす。これがないと人間は生きてはいけまへん。でもこれが革新的なアイデアイノベーションの創出の際には大きな制約になってしまうんすよ。我々が物を置くときには無意識に縦横そろえてしまうとか、赤信号を見れば自動的に止まってしまうとか、無意識のうちに行動様式を制約していることが如何に多いかは、意図してそれを見つけようとしても本人にはなかなか分かりません。ダハッ
 それともう一つ、こういう実験がありまふ:選択肢が多すぎると、それだけで疲れてしまって選択自体を諦めてしまう傾向が人間にはありまふ。例えば数十種のインスタント・ラーメンが置いてある売り場と、数種類しか置いてない売り場で、どっちが売り上げが多いか?ちょっと考えると選択肢の多い前者の方がお客様のニーズを満たして売上増大!とか思いますが、精密な実験計画と共に統計的な処理をすると、結果は後者の品数が少ない方が売り上げが多かったのれす。盛り沢山なコンテンツが多いブログには「後で読む」タグが多い由縁ですぅ。
 そこで、知識が多いと言ふことは何を意味するのか?それは選択肢が知識によってとても多くなるといふことなんす。知ることの弊害!知識がアイデアを抑制し阻害するというパラドックス!知識が多いと、無意識的に選択することをやめてしまうと。(この無意識的にってところが怖ろしいですね?)つうことから研究者は「新しいことを生み出すのは、専門家ではなく新し物好きな素人であーる!」と結論づけていまふ。ま、わだすの経験からゆっても、当たらずと言へども遠からず。かな?

 意識して正解を出す訓練を学生時代からやっていた秀才にはイノベーションは無理無駄斑。では、正解のない世界での無意識を鍛えるにはどーすればイイのだろうか?








 ここで安易に回答を期待した諸君には、永遠にイノベーションはムリでしょう。ダッハッハ



 知識が多すぎる事はシャーロック・ホームズ的な推理には有効かも知れません。過去の累積の中からヒットする確率が多くなります。しかし、自分たちが決めた使い方の枠から離れられない状態にいる技術者が、それを使った新しいアイデアに気付くと言うことは極めて稀だと感じるわけです。ネット・アンケートやネット・マーケティングが有効な所以です。か? どもども。