9月5日(水)ルールがルールにルールをかます。

 朝のうち雨残るも晴れ。22℃〜32℃、58%。真夏日復活す。颱風の余波で南の風強し。




 ルールとは:もう少し楽に生きてみたい。

 人間世界を上手く渡るにはルールは必須です。校則からクラスの規則、法律・条令など社会規範、道徳や倫理など人の道、自分を律するマイルール、マニュアルやアルゴリズムなどの手順、数学の規則、ゲームやスポーツのルール、・・・などなど人間の生活にはあらゆるルールが付随しております。

 そして人間を大きく分けると、ルールとは守るべきものである派と、ルールとは作る(できちゃう)ものである派になります。ルールを守るべき聖書とするか、ルールは実体に合わせて運用するもの、とに分けてもいいかも。社会的動物である人間には、もともと規範同調性向つうのがあるから、ルールに従うという点は同じだが、ルールに絶対性を持たせるか、ルールを柔軟に運用するかの違いしか無いようにも思へる。

 すかす、この違いが実はとんでもなく大きいんですぅ。ルールの奴隷か、ルールの君主か、くらいのどえらい違いがあります。もともとルールの生成過程において、人々のインタラクションの中から自然発生的に出てきたルールは従いやすいし、またその変更も柔軟です。すかす、恣意的に、強権的に、被せられたルールは、一見善さそうでも長続きしません。例えば「生類憐みの令」みたいなやつ。理想に燃えてこの世界を良くしようってな意図は分かりますが、実態から乖離し過ぎてると悪法になります。「禁酒法」なんてのもそーですね。しかし交通ルールなんてのは、元来それが無いと交通がしっちゃかめっちゃかになってしまう自然発生的なルールなんです。その証拠に右側通行、左側通行はそれまでの社会の実態に合わせて、どっちでも決めればいいんですぅ。

 社会制度設計つうのも、本来はその社会の通念を規範化すべきで、無理に捻じ曲げると、社会にひずみが生じます。ま、制度設計なんてコントロール思想が、そもそもの大間違いだとは思いまするが。

 このようにつらつら述べてきたのは、現今の日本社会がルール実態主義からルール絶対主義にに向かって、その速度を速めているように思えるからです。ルールを破る者は人に非ず!とか、校則を守らない生徒はいらない!とか、社則を守れない者はクビだ!とか。その中において、ルールを見直してみようよ?という志向が全く見られません。これを全体主義と言わずしてなんというんじゃあああああ!ショボーン



 あ、言語論において、「間違った使い方ができる言語が、正しい使い方ができる(意味を担える)。」つう一見自己矛盾的な法則があって、正しい言葉の運用には、間違った使い方が必須なんだと。言語をルールと置き換えて読んでみると、興味深いかも。ども。