11月18日(土)とかくこの世は住みづらい♪

 寒雨パラパラ降ったり止んだり。8℃〜15℃、60%。

 鼻水や痰が黄色に変わったから、獲得免疫が発動したものと認めれるなりっ!回復は時間の問題となりぬ♪ども。





 コンテクストとは:文脈のことなり。

 つうよりか時代背景や脈絡、周りの空気、つう方がより広い解釈でしょうか。或る単語や文が、それらが置かれたコンテクストによって、その意味するところがまったく逆になったりします。「ばか」とかも親しさから、あきれるとか、叱責まで幅が広いし、「適当」も丁度マッチしるから、アバウトまで解釈の幅が広いですぅ♪・・・この辺が、単なる字面と、それが真に意味するところのもの、とのコミュニケーション・ギャプの原因なんですね。ども。

 その行為が置かれる環境によって、ある行為の評価がまったく正反対になる例もたくさんありまふ。例えば、組織の中では、ほうれん草(報告、連絡、相談)は手短に、要領よく、簡潔に、ってな原則がありまふ。この仕草を的確にでけない者は、無能の烙印が押されるかもしれない。・・・すかす、同じことを家庭でやると、これは停年離婚をもたらします。なにしろ家庭では、情報交換よりも親睦が優先されますから、「もっと手短に要領よく言えんのかあああっ!」なんて怒鳴ると、DVとして排斥されます。それに家庭内で余りにも効率ばっかし追求しても、ゆったりまったりの親密さとは相反してしまいますね。どもども。


 ある地域では良い事でも、他の地域ではあまり評価されない、ってなことも多いですね。正しさや適応ってのは、場所場所で変化するのですぅ。議論の文化の無い所で、自分の正しさだけを主張しても、その意見は広がりません。議論の文化のある所では、自分の意見を主張できない者はアホも同然。新選組血風録では長州藩士は不逞の輩、龍馬伝では新選組はごろつき集団、文脈の違いによりいか様にも解釈は変わります。

 さて、現代日本は民主主義の時代と申せましょうが、後世からは衆愚の時代とあざ笑られるかもしれません。時代の評価は、その時々のメジャーな支配的見解による相対化の嵐に見舞われます。とはいえ、頑なに守られた信条(宗教?)というのも有りますから、人間の物語り性(信じる力?)も、あながち軽視することもできません。


 斯く記すように、相対化というのは、ずぶずぶの蟻地獄のようなもの(かってのB.B. said)で、こりは人生と相似たものと言えるかもしれませんねぇ。ドッボーン






 今日は、品川方面でとても良い議論を聞けたから、ホントはとってもご機嫌なんですぅ。狭い日本も、あながち捨てたものでもありません♪♪♪ ムフフフフ