2月6日(土)ご〜〜ん、おんおんおん〜〜〜♪諸行無常の響きあり・・・

 薄曇り。5℃〜9℃、44%。





 無我夢中:でこぼこ住宅を作った人の思い出に寄せて。

 欧米の「自己」とは状況の中で行動を選び取る「選択主体」なんだって。旅客機のなかでも、「ティー オア コフィー?」なんていちいち選択を押し付けるでしょ?日本人から見ると、なんだか面倒くさいですぅ。「粗茶でございますが・・」なんて御任せで出てきた方が気楽だよね?割烹でも季節の旬を料理長が見繕った御任せコースが安心ですぅ。

 翻って日本人は自分を押し出して主張ばっかしする人は我儘とゆわれてました。いわゆる無我の境地で自己を滅却することから修業が始まります。これが諸行無常となり、あらゆるものごと(諸行)は変化して(無常)一つに定まるところなーし!という世界観ですね。鴨川の水は絶えず流れているが、元の水に非ずとか。現代では人間のかだらも絶えずその構成分子が流れ去っていて、7年もすれば全て入れ替わっているとゆわれます(動的平衡?)。物質的に自己は確定しないのです。また精神的にも自己の連続性は必ずしも保証されたものではありません。睡眠や全身麻酔、はたまた昏倒により中断された意識は記憶によって繋がれるように見えます。が、実は記憶も作り替えられたり間違えたりすることが多いです。また多重人格が入れ替わるということもあります。このように見ていくと精神にも連続性が無いのではないか?という疑問が湧いてきますね。

 一方、情報というのは変化しないものをいいます。絶えず変化するものは情報にはなりません。情報は意識によって作られます。意識は常に「同化」を志向するからです。反して感覚は「違い」に鋭敏です。この変わらない情報を、変わらないように伝え、変わらないように保存するために言語ができたといってもイイでしょう。動物は感覚、人間は言語。このため人間は生の現実から遊離して、意識の焦点が当たったところしか分からなくなりました。この弊害を避けるには、都会の中ばかりではなく自然に接して感覚を鍛えることが大切です。予想出来ない(同じではない)様々な環境に囲まれていると、固定観念が融解していきます。同じ高さの階段ではなく、デコボコの山道をあるいたり、水溜りに足を取られたりと、大自然の中では意識の同化作用から解放されて、精神も自由になります。

 やっぱし人間は自然に帰らないと、不自然ですよね〜♪