6月24日(水)トイレから敷衍した妄想

 夏晴れ。19℃〜29℃。公園では既に雑草が一杯で、お花たちは疲れ気味。・・・夏草や 弱者(よわもの)どもの つぶし合い(ぼくの細道)。






(独り言):

 結局、富国強兵の先軍政治がやりたいだけなのかな?しかしどーみても押しかけ傭兵で、他国のお先棒を担がされるのが落ちでしょ?ベトナム戦争時の韓国軍みたいに。あれで韓国って尊敬されたっけ?武力による脅しをしている北朝鮮って尊敬されてるっけ?






 我々は世界がどれくらい見えているのか:

 トイレで座って、前のタイルをボーっと眺めていると、突然壁に奥行きが出たりする。何本か離れた線を一本として見ているらしい。これは立体写真とおんなじ原理で、視差が眼球筋を通して脳に伝達され、奥行きを感じているためです。我らの祖先は樹上生活をしていたから、飛びつく枝の距離の把握が死活的な重要性を持っていたんですぅ。生物はその生息環境に合わせて、感覚器と世界の認識を発達させると。

 蝙蝠は暗闇でも超音波レーダーを使ってピアノ線すら把握し、飛んでる虫を捉えます。もぐらも暗闇でその方向感覚と距離感で世界を把握し、臭いでミミズを捉えます。一体これらの生物に、世界はどのように見えているのか?我々に見えている世界とは全く違うであろうことは、容易に推測できます。更に、いつも濁っているナイル川のうなぎは、自分のかだらの周りに電界を張り巡らせ、その振動や乱れで餌の小魚を検知できますのや。電界を通した世界観ってのも不思議ですよね。渡り鳥など一部の生物は磁界が感知できるというから、これも不思議。クモや昆虫、ミミズや線虫の世界は、想像もできませんね。

 こうしてイロエロな生物を俯瞰すると、我々が我々の五感で把握しているこの世界は、我々にそー見えているだけであって、実はイロエロな世界の見え方があるんだ、ということがおぼろげながら分かります。つまり、全ての生物の背後にある「自然そのもの」は永遠に不可知であると。各生物は、まるで群盲象を撫でるように、環世界のホンの一部しか見えないんですねぇ。(玉虫の「人間よ驕るなかれ」より)




 注:でも玉虫は、独我論のように「自分には自分の痛みしか分からない。人の痛みなんかは絶対に分からーん!」つう自己に閉じた世界観は取らないんすよ。遺伝的にほぼ同じような個体間では、多少の差異(例えば、色弱や難聴のような)はあっても、ほぼ同じような世界把握が出来ているって前提を取ります。そーしないと言語などを通したコミュニケーションが全く無意味だっつうことになってしまいますからねィ。