11月19日(水)自由とは、世界を主観的に捉えることがでけることであーる!

 真っ青な空の快晴。10℃〜15℃、48%。今日も北寄りの風やや強し。遠近を際立たせる技法の一つに、遠くはぼやかし近くはハッキリ!つうのがありまふが、今日は全てが近くに見えますたぁ♪東京タワーやツカイスリーに手が届きそう♪





 制約の中にこそ自由はある?

 箍(たが)というか枠というか型というか、制約があってこそ自由に羽ばたけるって良くゆわれまふぅ。生命も細胞膜ができて初めて、その中で多彩な発展がでけたんだどっ!ゲームだってスポーツだって、手を使うな、足を使うな、頭を使うな(頭突きなし?)、などの制約があるから自由に動けるんですぅ。制約を無くして、自由にやらせれば、シッチャカメッチャカになってしまうんだどっ。

 歌舞伎や能・狂言などの古典芸能は代々伝わる表現の型がありまふ。この伝統的に極限まで簡素化された型を通して、複雑な感情や激情などがビビッドに表現されまふ。「狂言師として、600年の伝統ある型をインストールされているからこそ、自由に前衛的な試みがでけまふ。」と、シェークスピア劇や現代劇、ダンスや前衛パフォーマンスまで幅広く自由にこなす野村萬斎さんはゆってまふ。

 一方、不条理の作家カミュはその著作「シジフォスの神話」の中で、神からの罰としてシジフォスに課せられた、岩を(そこには何も留まれない)山頂まで押し上げ、すそ野まで転げ落ちた岩をまた押し上げるという苦行を描いた。これは生の意味を求める人間の本性を描いたものであーる!しかしシジフォスはこの不条理に気づき、それを受け入れることで真の自由を獲得したのですぅ。単純で無意味な活動の制約の中で、この世界に意味はないということを知ったときに、意味が無いからこそ個としての我々は真に自由であーる、と悟ったのだぁあああ!

 塞翁が馬な人生でこそ、そこには何物にも制約されない真の自由があるんだすぅ。ドヤ?









 追記:日本国憲法改正案

 今ふと思いついたんだけど、国民主権に基づいて「三権の長はその収入を、国民の最下層の者を上回ってはならない!」って条文を入れれば、ホントに国民の生活を改善したい者しかなり手がいなくて、民主制下で聖人政治が実現するんではアルマイト?長の収入を抑えれば、下の者はそれを上回ることが出来ないしね?アフォらすい提案だが、国民にホントの主権があるのなら、実現できない話ではあーりまへん。ドヨドヨ  国が世界の大国になるなんてのは事大主義、覇権主義の話で、国民がどれだけしやわせになるのかっつうのがホントの指標だよねっ!どもどもども。