2月22日(土)自分と他人の相互主観は共通基盤が無いと成り立たないのか、それともコミュニケーションでそれを克服できるのか。

 今日も、白っぽい快晴。2℃〜9℃と引き続き寒し。湿度39%。新宿御苑方面に進出す。ヒヨドリのつがいが早咲きサクラの蜜を吸ってます。おっと今日は2のプチぞろ目。




 
 塞翁が馬:小論

 この世のことには正解がないっ!つうのが塞翁が馬の真意ですが、「学問は世につれ、世は学問につれ」という意味では完成した学問もありえないのであーる。その時々の最適解に近いものはありまふが、それらは目まぐるしく変転すると。学問はもともと言語やデータに基づくものですから、その段階でかなーり制約されてるんす。

 例えば、言語はあるものやできごとを概念化して、それを記号化したものですから、個々の具体的な特徴は概ね捨象されて一般的にならざるを得ません。テレビと言えば、それは大きさ、色、重さ、画面、音声、回路などの諸々の具体的な属性は全部消えて、抽象的かつ一般的な概念に縮退されます。それ故、言語、概念では永遠に具体的な個物のイメージを捉えることができないのです。

 逆に頭の中に共通のイメージがある者同士では、言葉(記号)を忘れてもコミュニケーションは成立するばやいもありまふ。「ほら、そこのすぐ横町のナニがあれな恰好をしていたね」、「あああ、あれね、わしも驚いたよ。ははは」なんて周囲の人には何も分かりませんが、じいさん同士はイメージで話してます。

 えーと、何を話していたのかっつうと、概念や記号は具体個物を切り取って一般化したものだから永遠にイメージを再現できないし、その共通性はイメージを共有している者同士にしか通じないということです。ここに文化、習俗、常識、氏育ちなどの付随物が個人間のズレを生み、個人、集団、社会の間にも塞翁が馬を作り出しているのですぅ。ここでの正解はあそこでの不正解であると。

 For example:〜はありませんか?(日)、〜はありますか?(欧)。すみませ〜ん!〜を下さい。(日)、お願いしまーす!〜を下さい。(欧)などは文化の違いですね。