6月8日(土)本来的なわたしとは、人の目を気にしないわたしである

 うす曇りのち晴れ。19℃〜27℃と午後は少し暑い。

 江戸きり絵と明治の地図と現代の地図と対照しながら、大江戸散歩。神社や川筋はあんまし動かないものである。今日の実績9621歩なり。



 同じヨーロッパと言ってもラテン系とゲルマン系とではかなーり気質がちげーますだ。ラテン系は個人主義ケセラセラ(なるようになる)気質。信号は参考程度で車がいなけりゃ堂々と渡ります。ゲルマン系は全体主義でルールが絶対。信号は守るべきもので、どんなに車がいなくても赤信号は絶対に渡りません。日本人はどっちかっつうとゲルマンに近いですが、よりピアプレッシャー(同調圧力)に弱いでげす。みんながやるなら俺もやる、赤信号みんなで渡れば怖くないとか。

 幼稚園から始まる制服の連鎖はついに新社会人にまで進出し、リクルート・スーツを着てなけりゃ人ではないとか。プ 流行の服を着ていれば安心する日本人の心性と、フランス人のように他人と同じ趣味のものは着ない心性の違いは大きい。

 ハイデガーはドイツ人らしく、人間存在の在り方に関して2種類に分類しています。普通の生活人は平均性を気にしてそこから離れたがらない。他人の目を気にしてそれに隷属し、他人の目の中に生きる大部分の人を世人(Das Man)と呼ぶ。もう一つは本来的自己で、自分の思いを押し殺さず、他者に依存しない人を現存在(Da Sein)と呼ぶ。

 そしてこの世人自己から本来的自己に転換する契機は「死の自覚」であるとした。なぜなら死は自ら引き受けなくてはならないものであり、他者によって置き換え不可能だからである。死の自覚こそが世人から本来的な自己に立ち返らせてくれるものであるとして、存在と時間の理論を展開したのであーる。我々が経験できるのは他人の死だけであり、自分の死は絶対経験できない。死は経験論の範疇外の事象であるゆえ、死の不安の自覚を通してそれを現在に投起し自己の本来性を取り戻す試みを先駆的決意性とかゆってます。簡単にゆえば「どーせみんな死んじゃうんだから人の目なんか気にしないで、自分がホントに生きたいように生きようや!」って決意ですかねえ。くどくどと分かりにくい表現を超訳すれば、けっこうイイことゆってるのかもね。タハハ


 この項続くかも。最近はやりの人間とは人の関係性の中にのみ存在するって意見とどう調停するのか未だ思案中DAS。