10月24日(水)ちょとしたジャーナリズム考

 清々しい秋晴れ。14℃〜20℃。遠方がすぐ近くに見える。公園は色彩豊かなり。でも春とはかなーりふいんきがちげーます。野鳥(含、雀やハト)たちが草の実を懸命に啄んでいます。厳しい冬はもうすぐそこだからなぁ。



 橋下ー朝日、上杉ー読売、東国原ー文春など、癖のある人とジャーナリズムとの騒動が頻発していまふ。誤報も相変わらず多いしね。「あら捜し文化」が上は国会から下は週刊誌まで国全体に蔓延してしもたと。ホントは筋道がキチンと通ってイイ面が多いんですが、行きすぎると油断のできない荒れた社会が現出いたしまふ。警察国家とか検察国家のように隣の人も油断ができないとか。小泉さんが人生イロエロとかゆってた時代はよかったねィ。
 これは「他責傾向」とも連動するのかもしれない。自らを深く顧みずに人のアラを捜して攻撃すると。攻撃は最大の防御じゃなくって、いつかは必ず自分の身に跳ね返ってきます。それが今の世相。おまけにジャーナリズムまでお金市場主義に走って、報道倫理よりか売れてなんぼの世界。真実の報道よりか世間を煽って売れりゃ勝ち組、部数至上主義に陥ってる。組織に居た者なら誰でも分かってると思うんすが、そういう人が偉くなってくとまたそういう人を引き上げまふ。良心的な人間はパワハラされてスピンアウト。これが体制内改革の一番難しいとこですね。ですから組織丸ごと新陳代謝しかないのかもしれぬ。ぬぬぬ!
 これを無くしたらもう日本人ではなーい!といふ骨絡みの価値観に「権威主義」ってえのがありまふ。新聞に書いてあった、テレビで聞いた、知識人が言ってたと言ふのが正当化の根拠となるのが日本社会。無法者の集まり2ちゃんでさえこの始末。葵の御紋に意味もなくひれ伏した昔からの伝統です。いやいや今では国際標準ってのが現れて、それまで冷遇されてたのがノーベル賞取ったら手の平返したように巨額の研究予算を付けると。てめーら自主性があんのかよ!頭骸骨に脳みそ入ってるのかよ!とか言いたくなりまふね。
 でもこれが責任を取りたくない、いや集団でとる日本古来の風習なのです。権威に縋って決定すれば、個人の責任は追及されないと。ノーベル賞でもグローバル標準でも天皇陛下でも何にでも縋り付きまふ。時には藁にも縋るかも。自責にならなきゃなんでもイイと。嗚呼!Alas!
 メディアは一面の切り取りかたで主旨が全く変わってしまいまふから、これをデスクやプロジューサーに任せずに、索引で整理したアーカイブで公表する形にすればいいんでね?これは有能な高給の記者を多数抱えているマスメディアの義務ではあるまいか。例えば、危険側と安全側どっちで記事を書くか?経験的事実に寄ればそれは「危険側」のほうが売れるのですね。だから煽る記事を載せる。記者の集めてきた記事は多様だと思うんだ。お金をだして読むのはジジイだけだから、じじい向けの記事だけを選別するのが有能か?それで社に貢献して出世すると。ちみはしむときでもそれで満足なのかい? それが行き着く先は、究極のエンタテインメント@戦争物に傾きまふ。竹島でも尖閣でも北方四島でも、今にも戦争が起きそうに煽れば部数が伸びると。それで社長賞取って出世する。そーいふ人は要らないから、早くアーカイブ作ってね?そこでヴューが多かった記者が出世すれば、ホントのジャーナリストが復活するんぢゃナインかなぁ。ども。でもこのままマスメディアが信用を無くして衰退していくってのも時には必要な気もする、塞翁が馬。







 匿名擁護:「虚航船団」(筒井康隆
 文房具にまで感情移入できるんだよ!泣けた。別に記号なんすから、佐藤晋太郎ぢゃなくってもイイだろ?氏家真知子とか後宮春樹なんてあざとい実名風よりナンボか益しやろ。さよなら三角またきて四角♪