8月30日(木)社会脳というのはやっかいなしろものです

 雲の多い夏晴れ。空も少し白っぽいです。パステルカラーの夕焼けがきれい。暑さにも大分慣れてきた。・・・ってことは全然ないですぅ。


 久しぶりに智麒麟さんのとこを覗いたらイイことが書いてあった。「許される方向、許されない方向」ってエントリに「世の中には(もしくは私たちの深層意識には)、対象物のどちらが上でどちらが下かというヒエラルキー意識があり、下が上を馬鹿にするのは“許される”が、上が下を馬鹿にするのは“許されない”と考えている人が多い」といって東京人、関西人、東北人の方言に対する揶揄への反応を分析していた。これはありえますね。進化した猿人たる人間は社会的動物ですから社会脳が発達してまふ。その多くは上下関係の識別に使われるとか。「金持ち喧嘩せず」にも通じる無意識の上から目線が余裕を生じると。一般的に「強い人→弱い人」でバカにすると叩かれますが、これが「弱い人→強い人」なら見逃されやすいと。これは上司と部下、芸能人と素人、大人と子供などにも当て嵌まると。さらに敷衍して、アルファブロガと弱小ブロガとの関係はどーか?この辺はネットのフラット神話との絡みで、微妙だとちきりんさんは述べてます。
 人の言動を見ている分には強いのが弱いのを揶揄すると非難されそうですが、これが1対1の関係だと、同じことを言われても上司が言ったのなら腹が立たないが、部下に言われると腹が立つっていう、前記と逆の関係もあるような希ガス。「ご苦労様でした」なんて単純なのから、「そこはもうちょっとこうした方が・・」なんてのまで色々ありまふ。言葉のコンテンツだけではなく社会的な立場が語彙伝達に微妙な影響を与えるから、人間関係ってややこしい。






 カントの屁理屈論:その1、世界に始まりはあるか、ないか?
 カントの認識論では、時間空間の枠内で現実に我々が判断できるものごとは認識できるが、そうではないもの(神や霊魂や宇宙の果てなど)については屁理屈をどーにでも捏ねれるし、証明もでけないから、無駄だ!とゆうてます。(いわゆる不可知論。)それでどんな屁理屈があるのかを色々と上げてます。
・世界に始まりがあるとする。その始まり以前は空虚な時間で、その中では如何なる生成も消滅も生じない。その始まり以後は物事が生成・消滅する充実した時間がある。しかしその充実した時間の最初の時点は空虚な時間から生成されたことになり、世界の始まりとは言えなくなる。
・世界には始まりがないとする。すると現在は無限の時間が流れた後ということになり、∞後のある時点である、次の瞬間は(∞+1)の時点、その次は(∞+2)の時点、・・・となる。∞、∞+1、∞+2、・・・は全部∞と同じで区別できないから、始まりがないとすると時間の区別がつかなくなってしまう。
このように「ある?ない?」どっちでもないというのはアンチノミー(二律背反)になり理屈では解決でけまへん。故に議論しても無駄なんだと。タハハ