早朝強雨、煙雨昼過ぎに上がる。のち曇り。湿気多けれど涼しい。
ロッポンギーに行ってきた。相変わらずきれいなオネーちゃんとゲージン多し。また楽しからずや。西麻布から広尾にかけて飲み歩き、無事帰宅。エビゾー事件も遠くなりにけりっと。
たちゅるからブロックされて以来、何かとたちゅる語録にはイライラすること多し。これ即ち感情が論理を凌駕するの所以。でもたちゅるだって策士だぜ〜ぇ(すぎちゃん風)。ときに良い事言うから見ちゃうんだよね、実際の話しが。
例えばこれ、http://blog.tatsuru.com/2010/07/11_1220.php スワヒリ語の「まじめ」グループの正解率は81%。「手抜き」グループの正解率は36%。ところが原典に当たって見ると、実は正解率は約80%と約35%となっている。数字的には1%の差で大差は無いが、心理的にはえらく信用が置ける印象を与える。これが表現者の誘導。最近でも「組織内の異物@モンスターは3%しか成功しない」とか数字に託して信頼度を上げようとしている。だが、こんな統計は何処にもあーりまへん。ま、しかし文学者っつうのは表現力が命ですから、多少の大げさは大目に見よう。この議論も大筋では共感でける。しかし数字で箔をつけようなんてのは文系の通例で見っともないからお止めなせえ。
親の付けてくれた名前よりも自分で名乗った名前の方が責任が重いのかな?今後ネットでは揶揄、皮肉、罵詈雑言は控えようと思います。それらは何も生み出さないものねィ。恨みの連鎖は農耕定住民族の属性。遊牧・海洋民族はそもそも文字も持っていなかったくらいですから、すべてを風に流し、水に流してしまうのですねぇ。文字に書いた歴史ってのは書いたもの勝ちってところがありまふよ。記録抹殺されてしまった幾千の英傑はただ天地の境に漂うのみ。
あ、それで言いたかったのは名前の話しだった。近代個人主義は個人をindivisual(これ以上分けれない者)として自我、自分の中の自分として分離した。高々数百年の話し。それ以前の特に東洋は、「古人」といふ他人の中にある自分を大切にしてきました。即ち名こそ惜しむの所以なーり!それゆえ人生の節目ごとに幼名から元服、諱名、おくり名、戒名と名前を変えて行ったのはまさに昆虫が脱皮し変態するが如し。而して人は死して初めて名前も固定し成熟・完成すると。これ如何に如何に!
ネット上での匿名・顕名・実名・偽名など何ほどのことやあらん。(でも匿名で罵詈雑言誹謗中傷するのはどー考えても卑怯だよねぇ。ハンセーイ)