2月18日(土)何でも哲学にできるってことなん?

 こんにちは。晴れ。0℃〜4℃と極めて寒し。路面凍結。
北寄りの風強く枯葉を舞い上げる。ひゅ〜〜〜〜〜









 インディアン(インド人)がやっているカリー屋さんで
ナンとカリーのランチボックスをお持ち帰り。イロエロと
選べるんすが初めてだから無難にチキンカレーにした。
旨しうまし。












 現象学の定義をハイデガーは「おのれを示すものを、そ
れがそれ自身の方から現れてくるとおりに、それ自身の方
から見えるようにすること」と唱えた。むにゃむにゃ?













 ありていにいへば、ものごとを捉えようとするときの
枠組みを外してしまおう!つうおとろしい要請なのれす。
人間は日常生活に於いてさえ、あらゆる前提、枠組みで
動いておりまふ。そもそも言語自体が枠組みの一つなの
れすから、それを外したら何が残るのか?ものそのもの。













 身の回りを見回して何でもいいから、例えば「あ、電
話機だ!」と指差したとする。普通はその指の先を見て
電話機を確認するが、実はそれは電話機の形をしたチョ
コレートかもしれんし、インターフォンかもしれない。
それにその指した人差し指自体が実は電話機なるものか
もしれないが、我々は言語とボディランゲージと学習か
らなる枠組みの中で何の疑問も抱かずに、それを電話機
としてスムーズに日常生活を送っている。また書物は「
地球は回っている」と述べていますが、宇宙飛行士以外
は直接それを眺めた者はいないでせう。この世界は全部
約束(枠組み)によって認識されてるんですぅ。













 経験、学習、知識、習慣、・・・から成り立つ枠組み
を一旦かっこに入れて、ものそのものに還元するなんて
仕業は始祖のフッサールでさえ困難だと思われますが、
それに出来る限り近づいた態度をもって事物の本質に肉
薄するってのを、絵画をもって実行したのがセザンヌ
っちゅうことをメルロ=ポンティがゆってたから、今度
美術館へ行って確かめてこようとおもたさぶいさぶい日。














 何についてであれ、”知りたい!”つうのが哲学の
語源であり(philo-sophy)定義でありまふから、共感
をもったり反発を感じたりして関心を持った対象は何
であれ、哲学することが出来ます。絵画でも、漫画で
も映画でもコップでも街の騒音でもナンでもええんだ
す。おっとナン旨かったですぅ。ナンてなんなんだと
いふ哲学があってもええような希ガス。しかしそれは
一切の枠組みを外したナンそのものなんすよ。そこん
とこよろぴく。













マンモスヒャッピー












おお〜〜〜っ♪ 黒富士と茜雲が綺麗じゃのう!









 ノビーのエントリにおもすろいことが書いてあった。
参院を無くす決議が参院自身にできるわきゃねーがな!」
だってよ〜〜〜! → 一理あり。
でも自分を犠牲にしてでもあるべき姿を追求する高潔な精神
で政治をやって貰いたいんだが、高望みし杉なんかなぁ?
こういう自己言及的な不可能性ってたくさんありそだから、
ノートの採集録に、この項目も作っておこう。











 弁当さんが橋下市長風になってる件:
「そのあたり朝日新聞さんが率先してイランとイスラエル
仲介的な立場に立ってみてはどうでしょうかね」プ