10月15日(土)心身二言論、思惟実体(認識主観)と延長実体(客体物質)

 こんにちは。終日曇り、ときどき通り雨。前線に南風が吹
き込んだため湿気つよし。




 文明人は自分の感覚こそ正常だっ!っと思ってますが、実
は作り物の感覚かもしれません。恥ずかしさだって文化相対
的なもので、隠すほど恥ずかしいってことはままある。逆に
すべてオープンの方が恥ずかしくないとか。イロエロと例は
あるよ。


















 昔は痴呆とか愚鈍・魯鈍・白痴または抜け作って使ってた
けど、言葉刈りによってどんどん表現の幅が狭くなってしも
た。影薄ければ光も輝かず!どんどん薄らぼけた世界になっ
て行くぞ。表現の世界にまで平等を持ち込んでは差別はなく
ならんぞなもし。あからさまに人を差別し侮蔑するのと表現
の自由とをはっきり区別しないとピューリタンのドツボに嵌
りそう。禁酒法
















 主観や経験に逃げる卑怯とは:


「君はホントに人の痛みを感じれるんかい!」
「自分でやってもいないことを批判できるのかっ!」


 正論である。でも卑怯でもある。


人の痛みなんかマジで感じてたら身がいくらあっても持たん
わな。仮にそーゆー人がいたならば1日として生きてはいけん
でせう。でも、それを以ってその人を責めるのはとても醜い
行為だと思うんです。人は自分の経験の中からその人の状態
に一番近い感覚を想起して、その人の身になるんです。その
こころの理論をばっかにするなよな。
そこで経験の位置づけですねぇ。何をもって経験と為すのか?
人の行動範囲は限定されてるし、時間も狭い。今このときの
周辺しか経験でけまへん。大昔の出来事や、遠い世界の出来
事すべてを経験することはとてもでけまへん。ですから人か
ら聞いたり、本で読んだり、ビーテレで見たり、自分で想像
したり、夢で見たり、・・・したことをすべて経験の範疇に
入れなけりゃ、素人は何にも言えませんぜぇ。専門家独裁!
とは言え、斯様な認識の中で専門家の経験は素人よりかは深
いものがありますから、それはそれで尊敬するんは吝かでは
なーい!















 いやこの世界は俺の目からだけ見えて、それがリアルだっ
てのは自明なんだけどね。他人の目から見ても、たぶん俺と
同じようにリアルに見えてんだろーなっ!って想像する位の
ことはでけるよ。でもそれはリアルとアクチュアルとの差はあるな。
だって俺が死んでもこの世界はあると可也の確信で推測でけ
るが、それでもホントに死んだときには俺と一緒にこの世界
も消滅する(感じれなくなる?認識でけなくなる?)つうの
のもかなりの確信で予測でけるんだ。













 何を書いていいか混乱したとき、日常の生活日記の代わり
に形而上の概念を持ち出す。それがエントリを書くために玉
虫が編み出した方法だった。記憶がたった1日しかもたない
玉虫が人とまじわる唯一の方法だった。(パロ)














 いじょ、玉虫の無駄な主観論より。














ビロ~~~~~ン