5月21日(土)「伝えること、感じること」は芸術と科学の原点か


 こんにちは。本日も夏日なり。南の風やや強く、晴れ。
内陸は暑いかも。そういえば紫陽花がすでに満開だな。















 先年来、「芸術と科学の融合」が流行ってますが今日は
若手芸術家と若手研究者が交流する会を覘いてみた。いわく、
「伝えること、感じること(芸術の視点・科学の視点)」。







 元来、両者は人間や自然の営みを探求し、表現するもので
共通の基盤に立っていたが、時代が進むにつれそれぞれが
分化し共通の文脈が大きく違ってきてしもた。これらを再
統合しようとするムーブメントの一環として今回のセミナー
は位置付けられる。







 芸術も本来は絵画・音楽・彫刻・建築といった個別のもの
ではなく、ある時間空間を占める綜合芸術であった。それが
表現手段の洗練とともに細分化され特化された。現在、イン
スタレーションでその再統合化が図られていますが、未だに
使用空間から切り出された展示が大勢をしめると言えるです。
例えば、襖絵は回りの家具調度や部屋の佇まいに調和し、開
けたてを前提に製作されたものが、美術館のガラスケースに
収まって本来の生命が失われたりしまふ。芸術の本性を作者
の表現意慾、スピリットを他者に”伝える”ことと定義すれ
ば、それは表現手段(絵、音、香りなど)やその技術レベル
に限定されるものではなく、広く伝えるもの全般に拡大でけ
るであろう。のろしや手旗、鐘の音やチャイムなどからアップ
ツー デイトな科学技術を持ち込んでも何の不思議もナーイ♪と
いふ主張あり。









 一方、科学の側からは”感じること”の本質が語られた。
バーチャル・リアリティを用いた経験の切り替え、即ち代替
現実を実現する実験。ヘッドマウントヂスプレイとヘッドフォンにより眼前
の現実と過去の360度録画映像を自在に切り替え、しかも首の
動きに合わせて視界も変化する。これにより被験者に仮想現
実感を現出させる。更に視覚と音と触覚や運動感覚を同期さ
せると、過去の映像を完全に現実のものと錯覚したり、幽体
離脱したりしまふ。









 また、Choice Blindness(選択盲)という面白い実験が
あって、こうした仮想現実の中でちょっとした意識の錯誤が
発生する。施験者が被験者に2枚の顔写真を見せ1枚を選択し
てもらう。選んだ後にその写真を被験者に渡しながら、なぜ
その写真を選んだのかを説明してもらう。ここで一つのカー
ドトリックで被験者が気付かないように写真を入れ替えてし
まう。しかし、被験者は何事も無かったかのように(実際に
入れ替えに気付かない)違う写真について、なぜその写真を
選んだのかの説明をするそうだ。この無意識的な作話を、自
己合理化による主観的経験といいまふ。我々は無意識の内に
経験さえも作り変えてしまうのです。不思議なことに、施験
者をミエミエのCG画像にすると、受け取った写真が選択した
ものと違うとスグに気付いてしまいまふ。つまり、主観的
経験の錯誤と合理化による説明の作り変えは、実際の現実空
間での出来事だという強い信念がもたらしたと言える。これ
は、夢の中の意識も大部分は覚醒直前に合理的に再構成され
たものであるという仮説の根拠の一つでもある。








 私たちは、眼球や内耳で捉えた光や音を脳内で処理し、時
間・空間の現実「今、ここ」を認識するが、その眼球や内耳
がヘッドマウントディスプレイやヘッドフォンに拡張されたに過ぎないと見做
せば、仮想の代替現実も立派な(リアルな)現実空間に置き
替わるのであーる!








 その後、この仮想現実手段を”伝える”をキーワードに芸術
的表現にどー取り込めるのかという議論が活発に取り交わされ
た。実用以外にも芸術的表現手段として大いに寄与しそうだす。










 芸術も科学も「伝えたり、感じたり」するものであるという
方向性は分りまふが、対象に伝える意図はなくても(例えば
偶然にでけた自然物やデタラメペインティングなど)、受け取
る側が能動的に対象に意味を付与するっつう逆方向性もあるか
ら、表現も一筋縄にはいかんわな。






 この項、続くかも。もちろん「芸術と科学シンポ」の進歩に
合わせてね。ドモ



補遺:
 意識界の合理化要求の強さは、充分に自由意志の独立を疑わ
せるものであった。ショーック!なにしろ無意識下にて行われ
てるものに自由なんぞがあろー筈もない。















 ア~、セカイッテ、ナンダロ?