5月12日(木)引き続き自由について自由に述べる也

 こんにちは。引き続き終日小糠雨。やや涼しい。


はいたかったー、はいたかったー、はいたかったあ♪NO!
春先には毎年歯が痛みますぅ、NO!






 エート、何処まで言ったかな。菅人の不可知論では自由
は理論的には認識不可能な超越概念であーる!つうとこだ。
でも、その「自由」が無いと道徳法則による道徳世界が成
立不可能になりまふ。













 そこで意思の自律(自分の意思で自分の意思を律する)に
は「自由」の存在が要請されると。自由がナイト全部他律
になってしまいまふ。(Ex.欲望、快楽はたまた名誉、地位、
財産など自分の外にあるものによって突き動かされるロボ
ットでやんすね。プ)













 自分の内なる義務や良心に従うには自由意志が必要なのれ
す。(もちろん自由があるというのは神の存在と同様に論証
はでけないのれすから、これは単なる要求事項れす。)「そ
うしようと思えば出来た筈だ!(自由)」があって初めて「
良心の呵責」ってのも生じうるし、道徳法則も意味を持つ。













 「道徳法則は自由の認識根拠であり、自由は道徳法則の
存在根拠であーる。(要請)」つうことになり、自分の内な
る義務の意識すなわち定言命法に従って生きれば、みんな
しやわせになれるよ♪といふ極めて主観的かつお花畑な提案
なれど、カントの誠実さは伺い知れまふね。このしとはイン
ディアンみたいに嘘つかないイイ人なのれす。尊敬しまふ。
でもカントの本心は、人間なんて根源悪で放っておいたら
ワルばっかしする者だっ!つう性悪論者なのも泣ける。
だから人間なんて神(理性的存在者)と獣(感性的存在者)
の中間者だが、無限に努力を重ねれれば、いつかはきっと
定言命法に従って生きれるよね!神に漸近できるよねっ!
つう楽天主義者でもあるのです。











 そうそう、人間を決して手段として扱ってはならんぞよ!
っつうドラッガーみたいなことも言ってたなぁ。今の世は
自分も他人もみんな手段だからなあ。「ただそこに居てくれ
るだけでいいんだよ。」といふ優しい気持ちが欲しいです。















 自由についての各自の感覚や考え方には勿論大きな
幅がありまふから、そこは各人の自由だす。人間は選択
できるのです。もちろん自由についてもね。














チ~~~ン~~~