1月26日(水)そもそも学問とわ考

 こんにちは。雲の極めて多い晴れ、か曇りか迷うところ。
依然乾燥して寒し。






 谷垣ソーサイ正論を発す。

2009年衆院選民主党政権公約(マニフェスト)について、「憲政史上最大の確信犯的公約違反とも言え、撤回し、有権者におわびした上で信を問い直すべきだ」と述べ、今国会中の衆院解散・総選挙を求めた。

 これは正にそのトーリで、これが許されるのなら口先三寸
で政権を取って、後4年間はヤリタイ放題つうことに成りか
ねまへん。詐欺師も逃げ出す厚顔無恥と言えるでせう。再選
する気も無いからと、党の後先もなーんも考えてないなら自
己中です。考えを革むるに憚ることなし!つうんならガキさ
んのいふように信を問い直すべきでしょうね。違うかな?














 学問のすゝめ:

初編 ... 身分重くして貴ければ,自からその家も富で,下々の者より見れば,及ぶべからざるようなれども,その本を尋れば,唯その人に学問の力あるとなきとに由て,その相違も出来たるのみにて,天より定たる約束にあらず。 諺に云く,天は富貴を人に与えずして,これをその人の働に与る者なりと。されば前にも云える通り,人は生れながらにして貴賤貧富の別なし。唯学問を勤て物事をよく知る者は貴人となり富人となり,無学なる者は貧人となり下人となるなり。

... これがため心ある町人百姓は,その子の学問に出精するを見て,やがて身代を持崩すならんとて,親心に心配する者あり。 ...
(ユキチ福沢)(@_@;)m(_ _)mゴメンヨー(^^)/

とて実学をすゝめておりますが、その学問観はかなり功利的
ではあります。身分社会を脱するためのヤムを得ざる意見で
はありまするが。
 

 一方、本居宣長が松坂の豪商を相手に”もののあわれ”を
講じたところ、彼らは「わたしらは金にあかして色々な道楽
をしてきました。しかし、学問ほど深くて面白い道楽はあり
ませんねえ。ホクホク」と喜んで励んだそうです。










ま、現代も前者(福沢諭吉観)のような学問観が多く、時折
仕分けに晒されたりしとりますが、突き詰めればそれは金の
ため。つまりよく生きるための手段(金)を作る手段に杉ない
のれすねぇ。これは「金」を作るほう。







 人生の意味やこの世界の成り立ちを問う、また生きとし生
きる者の切ない情感や人情の機微など人間を扱う学問が学ぶ
ということの本来の意味を教せーてくれます。これは「人」
を作るほう。











 それで、学問は誰にでもでけまふが、少なくとも二つの問
いが必要になりまふ。
問1)何か面白い問題を考えなさい。
問2)問1で作った問題の解を考えなさい。
これはとてもバランスを要する問なのれす。1.が難し杉る
と2.の解を生涯出せないかも知れない。逆に1.が簡単す
ぎると、すぐに答えは出せますが、誰も関心を持ってくれな
い。これがまづ研究者にとっての唯一最大の難関れすねぇ。
蚤のタマキンや田螺のコーガンを研究してもハカセにはなれ
ます。何の役にも立ちまへんが。自分の興味に任せて、それ
で一生暮らせまふ。いや時には急に脚光を浴びて害虫駆除の
良案に貢献でけたりはするのかな(セレンディピティ?)。












 一方、分野によって問1)が重視されるか、問2)が重視
されるかの傾向がありまふ。例えば数学なんかは比較的自由
に、どんな問題を立てることもできますから問1)が重視さ
れたりしまふ。リーマン予想とかポアンカレー予想など。
フェルマーの定理など本の余白が少ないからホントは答えが
解ってんだけど書き切れないとか仄めかして、数百年も脚光
を浴び続けたぜい。反して工学は「解がなけりゃ無いも同じ」
つう問2)重視の典型ですねぇ。世の中を便利にしようって
な問1)が山ほどあるのですからねえ。リベラルアーツ
問1)が重要な分野でせう。何しろ「解がない!」なんて
設問をいくらでも作れる分野ですからね。















 しかし、デカルト以来の、「(理性を正しく導き、諸々の
知識の中に真理を探究するための)方法序説」に乗っ取って
諸学は細分化され分析され徒に知識の膨脹のみを招いていま
す。その方が簡単だから。でもデカちゃんは「綜合」つうこ
とも言っていて、これはセンスもいるし難しいから等閑にさ
れていると言えるでせう。













 ま、しかし七面倒臭せえことはさておき、好奇心をもって
この世界を面白おかしく眺めることが学問の本質と言えるの
ではないでしょうかっ。ども。