1月22日(土)付近を見てたら急にソテーを食いたくなった夜

 こんにちは。晴れ。陶器市のバーゲンで皿を購入。有田焼
の逸物だが小さな灰点が一つあるだけで半値以下と安い。
こういうのは最先端的な液晶モニターでもあるな。完璧主義
者からは程遠い拙者にはとても良い買い物ですた。たははは










 この時期の買い物はチキンレース的なところがありまふね。
「オイオイ、もう冬が終わっちまうよ!」という消費者の焦
りと、「在庫を早く金に替えないと春物が始まって死蔵品に
なってまう。」つう小売り側の焦り。どっちが我慢でけるか
のデスマッチ!!2割3割引きは当たり前、7割8割引きが
攻防ライン。さて明日はデパートの倉庫一掃セールスでも覘
いてみようかな?いや、そこに集う人々を覘くんですよ。ふふ












 「措定」といふ声を聞いて、昔格闘した文章を思い出した、
ふっさふさのフッサールくん。この方のパラノイアは有名。
年少のころ買ってもろたナイフを研ぐのが楽しくて、気がつ
いたら半分くらいにチビってたとか。「現象学」で徒に哲学
運動を煽ってばっかで自分は何の実践もしてねえと当時は
非難する輩もいたが、死んだら細々(こまごま)細々(ほそ
ぼそ)と現象論的な分析を書き記した文献・ノートが4万ペ
ージも出てきて、文献学者が未だに格闘中とか。へ〜へ〜













 つう事で、諸君にもソテーの切れ端を味わって頂こうかな?

 自然的態度の内に留まるかわりに、それを徹底的に変更してみよう。自然的見方の本質に属する普遍的”措定”(普遍的定立)を作用させず、普遍的”措定”によってその存在が”措定”されているものすべてを一挙に括弧に入れるということである。したがって、われわれが括弧に入れるのは、常に「我々にとって現にそこに存在している」この自然的世界の全体であるが、しかしたとえわれわれが勝手に括弧に入れたとしても、この自然的世界は依然として意識に現れる現実として存在し続けるであろう。
エトムント・フッサール 「イデーン I純粋現象学現象学的哲学のための諸構」より



たはは。こりは我々の先入見を取り去る「方法論」を述べて
いるのですが、そもそもこのマニュアル自体が分かりにくい
つうのがミソでやんすよ。1週間拝んで1行解れば、何らか
の御利益があろうってもんでい!どや!チュライしてみる?
ぷぷぷぷぷ