12月27日(月)才能とは何か?の考え方にも人格は滲みいずる也


 こんにちは。引き続き冬晴れ。10℃以下でややさぶ。
松、輪飾り、鏡餅などを揃える。東京タワーにも2010
カウントダウンが表示された。








 モギケンがオザーさんにはプリンシプルがあるとか言って
た(週刊あさひ)が、それが周りのしとがみんな離れていった
原因かな?揺るがない指針を持って生き続けるって寂しいね。
原理主義の明暗。







 たっつんのとこが賑わってた:
(アプリオリな)才能の枯渇について




 才能を徒に私物化してたり、貨幣化してたり、それに気が
つかなかったり、している人からの反発が激しいような希ガ
する。

贈与のもたらす利得を退蔵した人には「次の贈り物」はもう届けられない。そこに贈与しても、そこを起点として新しい贈与のサイクルが始まらないとわかると、「天」は贈与を止めてしまうからである。天賦の才能というのは、いわば「呼び水」なのである。才能はある種の贈り物である。
・・・
それに対する反対給付義務は、その贈り物のもたらした利益を別の誰かに向けて、いかなる対価も求めない純粋贈与として差し出すことによってしか果たされない。


 こういう強迫観念はエエですね。こういう風に生きれて、
始めて「良い生き方」ができるような希ガス。利己的な人間
には自己を心から肯定し、本当に満足する心境は決して現れ
ないでせう。”人間的に死んだ”ように見える人はわたしの
周りでもほんとうに良く見かけるようになりました。ホゲ
「純粋贈与」の概念は、具体的な論証を求めるしとには決し
て理解でけまへん。なぜなら、これは生き方の指針であって、
処世のノウハウではないからです。功利の壁。




 ・idiot savantの人*1はある欠損の代償にすばらしい才能を
与えられていますが、日本ではそういう人が表に出てくるこ
とが極めて少ないです。これも社会のオープンマインド欠如。
 ・ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは生涯、社会からは評価されなかった
が、自分の才能を信じ、ミレーのように人々を勇気付ける絵
を描こうと身を削りました。
 ・一方、エジソン氏は才能の99%は自分の努力の所為で
あるとして、天与を認めなかった。大金持ちにはなったが、
人間的に良く生きたのかどーかは定かでない。


 でも、わたしはどんな人にも天与の才能はあるんだと、か
たくかたく信じ込んでまーす。自分にではなく人の為になる
能力を才能と思ってますから。ただそこに居るだけで人を
和ませるのも大きな才能の一つですね。ちげーかな?






備忘:天与の才能の枯渇について。
  



才能とは、
・自己の内在から努力により発現(x)
・タマタマ負託された贈物(○)



才能の使い方は、
・うまく使う≠最大の利益を引き出す
・うまく使う=人の為、公共のために使う(利他的、内在化、血肉化)


・へたに使う=自己の利益のみに使う(利己的、外在化、疎遠化)




ほんとうの才能に気付いた者は、返礼の義務を感じる。才能の私有・退蔵に気付いた者は、純粋贈与に反発する。


自分が世のため人の為に何を成し得るかを問うしとは、才能の枯渇をまぬかれうる。なぜなら、そもそも”自分”の才能など眼中にないからである。




”自分が成し遂げたことのうち、「これだけは自分が創造したものだ」「これは誰にも依存しないオリジナルだ」と言いうるようなものは、ほとんど一つもない。”

→この真実は厳しくも驕者の鼻を打ち砕く。



 いじょ、つらつら感想を書き連ねましたが、信じる者は
救われる範疇であるのは確かでせう。ナムナム

*1:これこそ正しく天与の才能でしょう。絵画、音楽などで私たちができるはずもないことを軽々となします。記憶力の分野でも信じられない奇跡をおこしますが、それがごく当たり前な能力と本人はおもているのでその才能に気付かないことが多いとか。もの心付いてから今までの毎日を細かく憶えてるとか、数万冊の中味を全部そらんじてるとか。何事も自分を基準に考えていてはいくありまへんねぇ。