5月31日(月)不思議な国のタマムシだあ

 こにちはでござるのおしりは真っ赤でござる。爽やかな晴れ。
あっという間に五月(さつき)も ジ えんど でござる。





 そう言えば食い倒れ太郎ハカセが申すには、「人体の代謝
速度が落ちるから相対的に外部時間が早く過ぎサルように感じ
るのだあ!」とか。ふむ。一理ある。体内時計と言っても水晶
発振子が内臓されている訳ではなーい。何らかの化学反応すな
わち代謝作用が関係していると高い蓋然性で推測でけますな。
浦島太郎の夢うつつ、自分は呆けても外界では時間は飛び去っ
ていると。タハッ






 最近の気鋭の哲学者からも未だによく引用されているアウグ
素ティヌス(西暦400年前後)先生はその主著『告白』の中
で時間が人間精神とどう係わるのかを考察した。時間は空間的
な表象ではなく、むしろ精神的な表象であると喝破し、「神様
が光あれと世界を創造する前は何をしていたのか?」つう面白
論争に終止符を打った。つまり神様が世界を創造したときに、
我々が生きているこの世界の時間も創造したのだから、天地
創造の以前には時間なんて無かったのだよ、と。だから「・・
をしていた?」とか言う過去形なんかも勿論無いから、この
疑問そのものが成り立たないんだと。う〜む。これは否定神学
の元祖だな。そもそも言語によって対象化され限定されるのは
永遠不滅の絶対神では在り得ないから「唯一」とか「善なる」
とか「全能の」とかいう神の属性を語る言語を全て滅却した
地平線@境界にかろうじて絶対神ふいんきを感じ取るだけだ、
という全てを否定して残るものが神だという定義れすね。









 これは時間とともに「言語」の本質を図らずも顕わにして
おりますね。すなわち、言語は世界を全て対象化してしまい、
クールに概念化してしまいますが、本当のこころを捉えること
はでけないと。この辺はキタロー先生にも相通じるとこがある。
対象化されたものを正確に把握することは出来ません。必ず
その認識の過程にはノイズや歪みが起こり真の姿は捉えきれる
ものではなーい!とか、あんましこれをやってても堂々巡りで
らちかんどー。






 世界の裏に真の世界があるのか、世界は単に乾いた現実が
あるだけで何の意味もねーぜよ、か?






 ただ、日常の世界を突き詰めて考えて見ると、快かったり
感動したり、美しいかったり、苦しかったり、・・・という
生きて死ぬ、何だか理由も分からん状態が、極めて合理的に
見える機序により成り立っているということだけれすぅ。
不思議だ、不思議だ、摩訶不思議だあああああああああ!!!







ハレ?