こんにちは。雲の多い晴れ。やや気温戻す。そろそろ
コートやダウンジャケットを洗濯屋に預けに行こうかな?
ネットを止められて家族を惨殺とかの記事が出てたな。
アメリカではゲームを捨てられて自殺したとか、携帯を取り
上げられたら家出したという記事が過去にあった。その
つながりこそが最後の支えって子供もいるんだから安易に
自分の価値観を押し付けたら惨劇を見るよ、とか評論家が
言っておった。ま、人のことなんざテケトーに論評してりゃ
おk?ってスタンスかな。だいたい自己反省してみると、
生活の大部分はデータや正しい統計を吟味せずにテケトー
に判断してるよな。そうでなくっちゃ参っちゃうしね。
その辺の弱みに付け込んでるのがマスコミや評論家なのか
なあ?
もしも評論家がホントに第三者の目を持ちたけりゃ日英米
独仏ロシア中国のメディアに日常的に接していなくてはなら
んでしょ?個人では不可能だったらチームでもイイけどね。
そういう努力はあんまし見れまへんねぇ。弁当は時おり英文
を見てるからまだましか。文献学的な臭さが臭うことはある
が、ま、仄めかしの帝王ですからね。
そもそもフレームの違いつうか視点の違いはバカの壁。
違う物差し(説明方式)で計ってたら一致するわけはねーぞ
なもし。事実(〜である)と当為(〜であるべき)、今ここ
とあすなろ、現実と理念(理想)、個物と普遍、自分の現実と
法的な権利、実証主義と観念論、現実論と理想主義、現実肯定
か現状否定か、卑しくも頭を使おうと志した者が嵌る相克。
一つだけ言えるのは、疑問を持たない人、行動の人、信仰の
人は考えません。苦しみ、疑い、迷うひとは懸命に考えます。
神を信じていない人が多かったから中世神学が発達したのかも?
論が起こるところ、そこは修羅の巷。普天間なんかはもともと
そんなにスッキリと決着してはいけなかったのれすね。タハッ
ト