4月6日(火)薄らばれの日に薄らボケたおつむで虚仮たことを考える


 こんにちは。うすら晴れ。春霞み。暖か。春の色彩。薄水色の
空に白桜色の桜、柳の新芽は黄緑色、菜の花の黄色とアカネ
モチの茜色。みんな合わせて薄っすらと鮮やか。






 突風にあおられた花吹雪が青い空にヒラヒラと舞い上がって、
消えた。水たまりに目を転じると小さくて真っ黒なオタマジャクシ
がうじゃうじゃと泳いでいる。年年歳歳春景合い似たり。ニタリ

















 調整型の政治家は指導力に欠けブレる、決断できる政治家は
独裁的だと言われる。漢字の読めない政治家はアホだと貶さ
れる、英語をたどたどしく読むことができる経営者もあまり
尊敬されない。勿論、幅広く解釈できる名文を書くことがで
ける官僚は全く尊敬されない。
つまり何をやっても何を言っても、貶される時は貶される
のだ。それは本人の責で無いことの方が多い。いやむしろ
貶している者の品性を顕わにしている行動だと言えようか。
それはすべての事物には2面性があり、良い解釈と悪い
解釈があるからです。つまり、ダブルスタンダードは言葉に
よる概念化の本質なのれすね。同じ事象の二つの見方に杉
ません。慎重な人≒決断力の無い人、決断でける人≒オッチ
ョコチョイとかどーにでも揶揄でけるから、それは揶揄して
る人の責任なのですね。









 だからある言説を読んで、これは朝日的、これは産経的
なんてスグ分かるんだよ。もともとイロ付いてるから。
ホントはそうじゃないんだけど、ある意図があってから
論理がある、ある感情があってその合理化に論理が使われ
る、なんつうことは良く見聞きできます。そのなかでホント
の論理を見分けるってのは実はかなり難しいことなのれすね。
その前に屁理屈に負けて疲れちまう。
数学的な論理と政治経済社会的な論理のなにがちげーのか?
っつうと、論理自体は正しければ正しい。しかし公理系
つうか前提が全くかみ合わないまま、論理的な整合性だけ
追及してればバカの壁ってなもんやろ。議論の大本、寄って
立つ基盤、前提がスレちまったら後の論理は形骸ってことで
やんすね。ドモドモ

















 つまり二つの見方のできる物事のどちらかを強調してい
る時点で既にイロがついているといへるのかも。ま、こう
言っちゃ「全て相対化して正しいことや間違っていること
なんて無いのかよ!」と怒る人も多いでしょう。が、極端
に言えば、「そうそう、そのトーリ」としかいへませんねぇ。
ある時代、ある国の、ある集団の中では正しい。
べつの時代の、別の地域の、別の集団の中では正しくない。
としか言えません。なぜなら、まっさらな脳でうまれた
赤ちゃんは、その社会、その文化、その宗教のなかで脳
配線され人間になるのですからその社会の中での善悪しか
わからないのれすね。一応、書物や海外見聞やイマジネー
ションでこのような生まれつきの傾向を薄めることは出来
そうですが、レゾンデートルまでぶっ壊したら、鬱にな
って死んじゃう鴨。ま、歴史上ときおりそんな勇者が現
れることがないとわいへませんがね。断崖で自分が立っ
てる足元を自分で崩すくらいの勇気がいるのでせうね。
やった事ないから分からんけど。

















 と、自分でも解決できんことをグダグダ述べてても始ま
らん。周りの器具を使わないで、自分の認識力だけで自分の
水晶体や網膜を認識でけるのかっ!よりも更に難しいのは
自分の脳で自分のこころを認識でけるのか?ってなもんや。
主体的に意思や思考を働かせている心を、認識し分析しよう
とした途端に、主体的なこころは既に客体に変じていると
いう矛盾は、人間である限りどんな哲学者も克服できはし
ないでせう?ま、人の心をミラー・ニューロンで自分の心の
なかに映して、それを人の心だとおもて解釈することはで
ける。でもそれは漏れの脳内に移植された人の心であって
モノホンではない。
















 ネットの議論はある意味哲学的でおもすろい。論理と
感情のはざま。主体と客体の入れ子状グダグダ感。僕が
こう思ったと君が思っていると僕は思ったとキミは思う
のかい?なーんてね。もし諸君が論理的な議論好きだった
ら、これも楽しめるかもね。


知魚楽


 或る日、荘子は恵子(ケイコぢゃないよ。荘子の友人
れす。)と水のほとりに遊んだ。水中には魚たちが悠々と
泳ぎ回っている。


荘子:魚が自由自在に泳ぎ回っている。これは魚の楽しみ
   なのだ。
恵子:君は魚ぢゃないのに、魚の楽しみが分かる訳ない
   じゃん。


荘子:君も僕じゃないんだから、「僕が魚の楽しみが分から 
   ない」と、君に分かる筈ないじゃんwww。
恵子:僕は君じゃないんだから、勿論君の内心は分からん
   よ。でも、君も魚ではナインだから、君に魚の楽しみ
   が分かる訳ないじゃん(爆)。


荘子:ぢゃ、その君の言い分に従おう。君は今、「君は魚で
   もないのに魚の楽しみが分かる訳ないじゃん。プ」と
   反論したね。その裏には、君が他人である僕の認識
   能力を知っているからこそ、そう反論でけたわけだ。
   それなら僕も同じじゃん。水辺に立って他者である魚 
   の楽しみを知ったわけさwww。


                 『荘子』秋水篇より



 いつの日か、ネット言行録が何処かの星で古典になって
いないと誰がいえるでせうか?いや、言えない。だって
面白スグルんだもーん。









デワ















「チーン〜〜〜〜、魚心あれば水心」


な、なぬ!水心だとおぉぉ!  魚心も分からんのに、なんだって
水の心まで分からんけりゃ遺憾のや〜〜〜! アホラシ。












ホナ