1月14日(木)「私」とは何か、について「私」が考える、堂々巡り

 こんにちは。冬晴れ。乾燥して空気が乾いてます。巷でも
空咳している人多し。寒さにも大分慣れてきて、「ま、こん
なものかな。」って感じ。空気が澄んでるだけに夕焼けの
グラデーションと黒富士と宵の明星(金星)が綺麗。











 昔の番組のビデオを見てたら(これもけっこう膨大で整理
を要する部類に入ってきた、好奇心が処理能力を上回ってる
弊害)『私』についての哲学をやってた。











 「この二つの節穴から外を眺めて臭いや痛みを感じる主体
って一体何なのだぁ!」という『私』への根源的な疑問。
周りの人々もそれらしき何かを感じてはいそうだが、『私』
はそれを実感でけません。他人が死ぬのは世界の登場人物が
退場するだけ。でも『私』が死んだら、世界全体が消滅して
しまうだろう。つまり、『私』と人々との間には根本的な断
絶があーる!つう論調。(日大 永井均教授)












 ふむ。「我思う、ゆえに我あり。」のデカルトは「私の存
在は他のものの存在とはレベルがちげーよ!」と言ったが、
永井氏の主張は「我あり、ゆえに世界あり!」と過激化して
おり、自分の主観の生ナマしさは他人のそれとは桁がちげーよ
と、見方によってはクオリア的主観主義ともいへるものであ
ーる。これは意識的に我らがちょと想像を逞しくすれば、
容易に実感でけるたぐいのものではあります。











 例えば、氏は思考実験で、「自分と全く同じ遺伝的要因を
持ち、経験も学習も、感情も意志も何もかも同じ者が二人いた
として、どっちがホントのジビンか?」と言う問いを立てた。
その答えは「その目から外界を見て、つねれば痛いのが私で
あーる。」でしたね。ふむ、徹底しとる。










 そう言えば、昔見たリアリズム西部劇で準主役が拳銃で撃
たれたシーンを思い出したぞ。プ その準主役目線のカメラ
では悪役が突如拳銃を抜く、拳銃を発射、バーンと画面が
真っ暗になる。しばらくして、悪役目線のカメラには準主役
の死体が写っている。つうようなもの。すなわち、目線その
ものが主体ということざんすね。しむとこの様にみんな真っ
暗になっちまうのかと、少しイヤな気がしました。










 真の世界はそれぞれの「私」に所属するとして、他人の動作
や他人のこころはミラーニューロン経由で「私」に乗り移って
きて、それをまた「私」が意識すると。このような2重3重の
構造は夢の中でも夜毎に現れます。夜毎こころは何処へ行く?
無意識の深海から浮かび出ずる「私」とは何か。「夢」こそ
まさに「私」自身の作品でありますから、世界は「私」が
造ったのだあ!とゆわれて、誰が反対する気になるでしょう。












 自己の檻からはだーれも逃れ出る術なーし!タハハッ