人間論

夜半、風強く冷え込む。

 人間の強い情念を描いた小説を読み込む。情念も現実を越えて
言葉によりて時空を移動します。これは光速よりも早いかな?






 知を愛する人間のこころは超越的な存在論すなわち絶対者(神?)
や世界の成り立ちについて議論してきました。ギリシャ時代は人間
謳歌してましたが、身体については魂の墓場であるという論調が
主体でした。で、霊魂(こころ)と身体の分離二元論。







 キリスト教時代に入ると身体は悪のス窟(肉=姦淫、猥褻、好色、
魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、妬み、
泥酔、酒宴など)と見なされ、霊魂は(愛、喜び、寛容、親切、善意、
誠実、柔和、節制など)善の象徴とみなされます。主は肉や欲情を
もろともに十字架にはりつけてしまったのです。






 それで近代科学の始祖デカルト先生は「我(こころ)思う故に我
あり」とて主観たる精神と客体たる身体に二元論的に分離してしま
い、人体を科学する対象としてしか捉えませんでした。そこで我ら
ニーチェですよ。はなから神は相手にせず、霊や精神、こころは
肉体という現実存在から発した派生物であり、肉のほうが大きな理
性で精神は小さな理性であると逆転を図った。思想的な大転換点と
いへるでしょう。






 で、その後フッサール現象学的な方法論などを駆使し、解剖学
的な身体ではなく五感を通して感じるわたし、主体的なわたし、
二つの目玉で見て動き世界の中心、ゼロ点、「ここ」であるわたし
を確立しました。それがメルロくんを通して「知覚の現象学」的に
身体論のブームになり、脳科学にまで連結した。つうのがわたしの
現状の認識ですぅ。






 いちおう、暇だったからまとめておいた。いずれまた認識は変わ
るかもね。ホントに霊魂とか神が信じれるようになったらイイナ。





追記:とてもこころに残ったけど勇気がなくって書き込めなかった
残骸。美しいものって自分のこころにあるんだい。それが外界に
反映されるんだい。まったく同じ心象をながめて視界は滲んでるけ
ど、はっきりと同じ風景が見えたような気がした。

「国じゅうが不景気でも俺が貧乏でも、そんなこととは関係なくきれいなものは地上にいっぱいあって、それらにエンカウンターできるチャンスが俺にもあって、というのはなんかとってもしやわせだ。」