イロエロなとこに壁はあるにはある

こんばんは。曇り、ときどき小雨ぱらつく。風強い。
荒川方面の郊外に足を伸ばす。新緑が気持ちいい。
みずみずしくも青い春といった感じ。






こういう日本人の感性つうのは砂漠の住人には分からんので
しょうね。逆に四季の豊かな日本人には清浄で乾いた砂漠の月の
本当のところは理解できないのかなあ、と想像。






これは時間距離にも言えるのかも。万葉の暮らしや風物、習慣、文化
を書物だけで理解したとしても、生活実感を肌で感じるのはとても
難しいことでは?とか想像できる。







古典の現代語訳とか海外文学の日本語訳の根っこの難しさはこんな
とこにあるんだろうな。もうほとんど創作に近いくらいの創造性が
必要だし、現地の生活感に精通した方が渾身の翻訳をしたとしても、
8割再現できればいいほうかも。その上、読者がまた一段とレベルが
下がるでしょうから、原作者に真の共感が湧くのは至難の業かも。






でも、あきらめないで継続する努力は尊いものだと思うけど、限界は
認識しないと唯我独尊になりかねません。こういう問題は異文化間の
音楽、絵画、諸芸術、諸工芸、コミュニケーションなどいたるとこに
潜在してんだろうな。イマジネーションの素とか様々な感性(男女間、
無常観、もののあわれ、わびさび、音韻・・・・・などなど)とか
言の葉(概念の記号)で表現しきれないものは文化の壁となって屹立
してるのか?





「壁高きゆえにぶち破らんと欲す」永遠の漸近線こそ美しいのかも。
個々の人々の心の中に生じたイメージが元と異なっても、またそれ
ぞれ違っても、総体として普遍性をたもてば、それはそれでとても
大切な意味のある事象であるし、新たな創作のフィールドではござら
んか。





春の野摘みなど為して、いにしえ人に思いを馳せたプチ感想。ああ、
人の世はよきかな、よきかな。では、おやすみなさい。またあした。
そうだ、上新粉を買ってきてよもぎ餅でも作ってみようかな。