H20年2月22日(金)

こんばんは。雲の多い晴れ。気温は更にゆるむ。




2が四つ並んだ珍しい日ですね。後二年経つと五つ並びますですよ。
そういえば、平成11年1月11日は知らぬ間に過ぎていたなあ。
当時は日記などつけていなかったから、日にちなどあまり気にして
いなかったような。いや、海外にいたから1999年1月11日で
特殊と思わなかったのかも。




「キミは認識不足だなあ。」とか言われるとカチンときますが、そも
そも基本に戻れば、認識つうのは単なる情報不足ではなく、脳の基本機能
なのであーる。すなわち五感によって時間空間という枠内の情報を受け取
って、それを概念つうカテゴリーのテンプレートに当てはめて初めて認識
というのが成立するらすい。前の五感は何となく分かるんですが、それで
もミツバチには見える紫外線は見えないとかそれなりに制限はあります。
そもそも時空というのも人間の脳が作り出した秩序概念だっつう極端な
見解も有ります。カテゴリーつうのも人間が生得的にもってる判断形式で
数量、上下大小、因果律とかのいわゆる自明とされるもの。




それで五感に与えられたものは、一瞬一瞬に生じては消えていくから、記
憶による再現はどーしても必要になる。これは音楽などを考えると頷ける。
そして更に大切なのは「意識の同一性」で意識が飛んだり、分裂しては
ならないと言う原則。どーです?認識するのも大変でしょう。




それで、もう少し大変なのは何が「認識」をしているのか、っつうところ。
デカルトは我という実体があって、それが認識すると言った。カントは
いやいや、そんなことはない、実体は魂かもしれんし脳やコンピュータの
機能かもしれん。確かなのは論理的主観という同一意識だけだ。フィヒテ
は、自我も認識主観も必要ではない。確かなのは認識活動を行う作用が
あるだけで、これは自己定立的な意識である。とした。





ま、物質もエネルギーも等価であるとした一石博士の方程式もありますから
実体であろうが作用であろうがどーでも委員ですが、「考える我」を果たし
て考えることが出来るのか?すなわち「考える我」を対象化できるのか、と
いうのが考えどころ。「考える我」を考えようとすれば、それは即座に「考
えられる我」に変身してしまいます。意識する主体、意識する意識をどうや
ったら認識でけるのか?それこそがキタローくんの最大の課題でありました。





と、ここまでが西田幾多郎のごく簡単な入門編で、続きが分かったらまた
いつか書くかも。ま、これも俺の備忘録。解釈が合ってるかどーかは保証の
限りではありません。悪しからず。さて、次は大分たまってしまった老荘
関係を読むか、買ったばかりの飯嶋先生のを読むかそれが問題だ!とか言い
ながらネバー・リターンを手にとっていた。ではでは、楽しみながらアバヨ。