いわゆる一つの哲学的考察

こんばんわ。曇り一時雪ちらつく、寒い寒い日なり。



基本的なことをいえば、西洋の思想は物事を分ける、分割していくという
方法論に則っている。これはギリシャからデカルトまで一貫しています。
心と物体、主観と客観、内心と外界、個別と普遍、理論と実践とか、二元
論の極み。ま、それで原子とか素粒子までたどり着いた科学技術が華開い
たわけですが、そこに至って初めて無から有が生じることに気がつぃた。
素粒子と反素粒子の発生など。





英語には「無」という単語はない。あえて言えば no-thing 「物が無い」
という表現のみ。だから万物の実態は必ずその元となる有(形が有るもの)
が存在するということで、その根源を探る思想が多かった。万物の根源は
「水」とか「火」とか、いやいやそれは「空気」だとか。そして、恒常
不変のもの、形の変わらないものが真の実体だという。

こういうイワユル客観的、科学的見方なるものは、明治以来の欧化教育
システムによって、我々にも小学校以来たたき込まれてきた。




一方、東洋の思想は、もともと見方の違いだけで全ては一体不可分である。
という2元論の否定と、万物は流転する変化の中にあり「無」こそが実態
である、という。「無」とは形がないからこそ形のあるものを生み出せる
という積極的な無である。例えば、ふろしきのように自分に形がないから
何にでも合わせられ包み込むことができるとか。





で、二元論を廃して主ー客や自ー他を合一すると、考えてはいけないつう
ことになる。なぜならある事について考えるということは、考えられる
客体があるということであり、考える主体の俺様が考える対象となる事柄
を主観的に認識・判断することになるからであーる。であるから頭の中を
カラッポにして座禅を組む事が、正しい東洋的方法論であります。




で、ネットで平たいテキスト打ってるのはどーなんだい?
とか「土曜日に読む哲学入門」を読んでて感じた事柄などなど。
「考える」つうことを考えると、頭の中で何かがループしているような
気持ちになって、自分がとても高尚そうに思えて、自己満足な休日。嗚呼




とかあほだら念仏唱えてると、いつの間にやら眠気が秘かに忍び寄って
きたですよ。しやわせ。ではでは、暖かく、おやすみなさい。