郵便局で割り込まれてイライラした自分をたしなめる


ごむばんはー。オラはよっぱらっただー。新橋で小宴会。晴れのち薄曇。
街には酔っ払いが溢れておーる。退廃だー、大杯だー、大敗ダー、頽廃?
「日残りて 暮るるに未だ遠し」だっけ、慶次郎残日録。



例えばですねぇ、自分が急いでいるときユックリと歩いているお婆さんが
いたとする、どー思います?でもね、自分がゆったりと散歩しているとき
リーマンが急いで追い越して行ったとする、どーおもいます?
前者はノロマ、後者はセッカチとか思いませんか?そうでなければ貴方は
稀有な人。99.9%の人は自己中心的にものを見ているのではないかな。




近代思想は「我思う故に我あり」から始まって主観的、自己中的が源流。
で、西田は「物となって見、物となって考える」とか「自分が物を照らす
のではない、物の側が自分を照らすのだ」と言ったとか。なんで物が見た
り照らしたりするんだYOー、ふざけるねい!とか反発しましたが、最近
これは自己中からの脱却じゃねえのかな?とか思うようになりました。




俺から見て、自分と外界(世界、他者、物)とを二分すれば、「我から
出発しているのは誤り、向こう側から見られるのが正しいのでは?」と
発想を逆にすれば、物が良く見えて寛容な精神に結びつくのではないか。
とか、短気な俺は解釈して見たのですた。



しかし、コトバによってコトバを研究するって、コトバに頼って思索を
深めるよりも難しそうですねえ。哲学が百通りあると言われるのは言葉の
概念把握の深さなのかも知れないな。では、おやすみなさい。ウイィーっ。