ハレとケの視覚的考察

みなさん、こんばんはー。
今日は雲ひとつ無い秋晴れの良い天気でしたねえ。夕空も素敵な
グラデーションで富士山の黒い影もすっきりと見えてました。
強風で落ち葉散り敷く歩道も何がしか秋の風情を漂わせておりました。





さて、このところ視覚に対する錯視、錯覚、幻覚などに興味を持って
オノレ自身を見つめて来ましたが、写真という客観的なものと比べれば
どーいう位置付けになるのでしょうか。




「写真はスナップショットの固定された一断面、視覚は時空の動きの中に
ある。」とか単純化できるかな。例えば、彫刻なんかを鑑賞するときは、
一視点だけではなくって、ぐるりと一周視点を変えて全体の印象を見る
必要があるとか。また、波とか雲とかは動きの時間的な推移を全体として
捉えないとリアルとは言えないのではないか。という疑問から発して、
それまでの主流であったブレッソン流の「決定的瞬間」から一歩進める
ムーブメントが興ったと推測できます。

シャッターチャンスと観察地点という時空二つの切り取りで写真に意味を
つけつけは主観が入り杉とか言って、無為自然に受身になろうよ、とか。




つまり「そもそも決定的瞬間なんてないよ」と言いつつ持続している時間
はいつ撮ってもおなじだいという広く視野をとったおおらかな態度とでも
申しましょうか。そして「植物図鑑」みたいに全てを等価に撮るという
姿勢が出てきました。ま、一種の反動でしょうね。主観での切り取りから
等価性と客観性による外界そのままの作為の無い取り入れ。




「見え」つうのを自然に受け入れる態度。真偽とか合ってる間違ってるとか
を超越した、一種の態度というか、想像力を働かせる為の余地を残す考え方
と思ってれば一理あり。ようするに単なる手段、方法論ですぅ。ですから、
単に目を見開いて受身でいれば対象はどんどん入ってくる。タイミング無し
にどんどんどんどん撮るフィルムが無くなるまでずーっと撮る態度。





で今は、何も切り取らないで全体で見ると意味が出てくるというインスタ
レーション*1です。一枚一枚では意味は無くても、全体で見ると何かが
湧いてくるという展示写真。個々の写真は表現の一要素という世界認識に
至ります。




今でも色々な見方があるとは思いますが、古い順から言えば、
絵画的な額縁写真→決定的瞬間写真→無為自然写真→インスタレーション
写真になるのかな。




生活でいえば、一瞬の輝く瞬間を経験するハレから、たんたんとした日常
を徹底的に生きるケの見直しに当たるとか。ハレレレレのケケケケ、
頭が頭がぼけけけけ、最近ビールをかっくらうと確実に睡魔の餌食に
なるようだ。考察は机上で酒飲みながらだとくどくなる。俗に鞍上厠上
枕上の三上を吉とするから、もう寝よ。では、もやすみひいい・・・

*1:設置インストールの名詞形、場所や空間全体を作品として体験させる芸術。