ポツ、ポツポツ、ぼたぼたぼた、どっしゃーんと1分で
ずぶ濡れになった昼休み。東京はシンガポールかよと!こんばんは。
ネットをやってて、ときどき感じるのは、言の葉って経験をどれ位
叙述できるのか?ってことです。経験というより体験と言ったほうが
良いのかな。例えば、今まで食べた事もないような美味しい料理の味
とか。うっとりするような良い匂いとか。体験した本人しかホントの
とこは分からないような何か。
例えば、音楽を聴いたり演奏したりしてるときの一体感とか、美しい
景色を見てるときの開放感とか、あるいはこれらが複合した実態を浮び
上がらせるリアルな感覚とか。ものすごく表現力のある人が細かく描写
したとしても、その人本人が体験したことの抜け殻位しか説明できない
んじゃなかろか。
では、なぜ我々は小説を読んだりして感動できるのか?それは小説の中
で我々の中の体験に近いものに共感しているだけではないのか。つまり
自分の中にそれに近い体験が無ければ、共感も感動も湧かないと。
「それでは、君は人の想像力というものを否定するのかい?」。「いや、
そこまでは言わないけど、体験とか志向の近いもの同士じゃないと真の
共感は湧かないのではないか。」「けっ、そんなことあるかよ!人間と
して生まれながらに持っている共通の感性というものは必ず通底してい
る筈だ。」とか内部でしっちゃかめっちゃか。
でも同じ小説を読んでも、例えば太宰とかドストエフスキーとか、経験
を積むと共感部分が変わってきたりはしますよね。感情移入できる人物
とかも。ですから経験、体験がある程度物事の受け取り方を左右するつう
のはあると思うのだ。それに数学とか科学とか普遍的に記述できるものも
たくさんあるのだから、必ずしも言語の力を過小評価しなくても良いので
はないかな。とか元気付けて、「まず君がやるべきことは人並みの表現力
を身につける事で、変な例を持ち出して言い訳する事じゃないだろう。」
ただし、味とか匂いとか美的感覚とかの主観に属するものは百通りの受け
取り方があるものだと覚悟して、読み手を尊重する態度は必要かもね。
ではでは、ごめんなすって。おやすみなさいまし。