現実と理想の狭間にたゆたう物

例えばですね、一切の修辞、隠喩、言い訳、たそがれ節等を剥して見る。
つまり、小学生の文章に直してみても、中味があれば、それは本物です。
簡潔ななかにも、言わんとすることが全て詰まっている。そういう文を
書いてみたい。




でも、文章というものが自分から外部への発信手段だとすれば、感情や、
躊躇や、見栄や、遜りや、慢心や、諸々の妖しげな心根が、混じって
しまっても止むを得ないのかもしれない。自分の中味がそんな物だから。




しかしですね、実態がそうだからといって、それを認めてしまい、何の
反省も努力もなく流されれば、永遠に変われません。ですから、たとえ、
手の届かない天上の星でも、常にそれを求め続ける姿勢が大切なのかな。




「事実の存在」と「規範的な当為」のせめぎ合いはいつの世でも困難な
課題を提起します。前者に傾けば現実主義の呪縛に絡まり、後者に靡け
ば理想主義の空念仏。法はその間を取って判例主義の偽当為。*注1



でも、ごく有り体に白状すれば、何の気兼ねも無くして、機嫌もよく
能書き垂れてるときが僕は一番幸せ。聞いてる諸君は不幸せと!
あ、今日はご挨拶を忘れてた。こんばんは、では、もやすみなさいまし。



*注1:ヒュームの法則に「である」からは「すべし」を導けないとある。