サタデイ・ナイトの有象無象

みなさん、こんばんは。うおっほっほ〜、と暑いぜ暑いぜの一日でし
たね。ご機嫌に夏を楽しんでいる事と思し召します。わたしはスイカ
を半分たべました。




俺もいっぱしの表現者になれたかな?なんて思うのもおこがましいが、
たんなるお喋りになっただけではないのかな。でも1億総表現者(と
思い込む者?)の時代もすぐそこにやって来てますよ。日本語の特筆
点は沢山あるがすぐに気づくのは人称の多様性、特に一人称。わたしも
文のお調子によってはおいらとか俺、少し改まって小生、小職とか、
ぼくとかは気取ったときだな。何しろ20は下らないだろこの表現は。
これは日本語だけじゃなかろーか。




「激怒というのは人類の宿痾(しゅくあ)のひとつであーる」なんて英語
のことわざがあったな。いったい「怒りの素」は何なのか?怒りとは
外部の対象オリジンではなくって自分の心のフレームが引き起こすのだ、
という説があります。すなわち「〜であるべきだ」という当為フレーム
から少しでも外れると猛然とカチンとくるらしい。わが身(こころ?)を
省みれば、ストンと頷ける意見ではある。そしてこの「〜であるべきだ」
が自分に向かうと「不安」、他人に向かうと「怒り」、社会に向かうと
「落ち込み」を生ずるらしい。では、どーしたらよいのか?お館さまの
ように「〜であるか」とエラソウにするか、「〜であるならいいなあ」と
願望にむかえば感謝が生まれるであろうよ。ぷぷぷ




歴史って面白いね。とってもとっても面白いですぅ。文献からイロエロと
想像を羽ばたかせる余地があるからまた良いのでは?フィクションか事実か
というよりもロマンかな。歴史家が自分なりの普遍性を抽出したり出来る
から幾通りもの歴史が存在するのかも知れないし、御用学者が正当性を
こじ付けたりも無きにしも非ず。でもカエサルの「ガリア戦記」とか孔明
の「出師の表」とか昔の英雄が直接書いたとされるものは歴史を飛び超え
て、とてもこころに響くものがありますね。現在の出来事もよく意味の分
からない事が多いのに、歴史が斯くも面白いのは離れて見ると良く透けて
見えてくるものがあるのかな。




ではでは、水風呂に入ってから寝ようかな。もやすみなさい。また明日。