Justice as Fairness

論理的な仮説として、社会的な個人が:
1.各人が自分の個人情報について全く無知である。
2.経済・社会等一般情報を熟知している。
3.相互に無関心(ルサンチマン等が無い)で合理的に動く。
という、些かありえない前提のうえで社会正義を考察した人がいます。

富や財産の配分に関する正義として:社会的基本財の平等をうたった。
第一原理:お互いを阻害し合わない範囲で、自由は最大限にかつ
     平等に認める。
第二原理:社会的・経済的不平等は以下の条件で已むを得ない。
A.最も虐げられた人々の期待便益を最大化すること。
B.公正な機会均等が全ての人に開放されていること。



「公正としての正義」1971.J.ロールズ


これらは、人間が努力によらず生来的に持っている性格・能力に鑑み
れば、あるいは運不運という個人の責任に帰さない偶然性を考慮して
みれば、不公平はある程度認めざるを得ない。しかし社会的共有財産
は第二、Aの条件下でできる限り公正に配分しようとの提議である。



これに対して、「現実の社会を動かしている少数エリートの意欲を
くじいてしまう。」また「富・財産等の事物信仰にとらわれ杉ている」
などの両サイドからの批判はあります。しかし、物事すべからく批判
するほうは簡単です。提議の1/10の努力で済みます。




そして、人間は元来エゴイスティックとの性悪説に立てば自分に有利にかつ
合理的に動くだろうから、無知のヴェールは余りにも理想杉ですが、
それでもなお且つ、前提を「論理的仮説」から「倫理的当為」に置き
変えた上で、わたしの情緒的受容性にやや近いものとして、上記の
J.ロールズの公正性について紹介するものです。




って、今日も報道を聞きながらのエントリうpだから、ココロここにあら
ず、が見え見えなエントリですた。さて、腰を据えてTV速報でも見ます
かな。折角だから、各党の念仏でも聞いて置きましょう。ではでは