ひとはその足の届く範囲から外へ世界を広げられるのか

いくら本を読んでも判らないものは分からない。
失敗して覚えるとか、成功して癖になるとか、体で分かるというとこが
どーしても残ってしまいます。歳で解るというのもありそう。



写真でわかった気になっても、実物を三次元でみたら迫力がまったく
違ってたり、頬をなでる風の優しさや梢の音、波のざわめきや海の香り。
本を読んで実感できるのは自分の追体験だけのような気もする。
でも、想像力の強い人は体験からほんの少しははみ出せるかもね。
あるいは対象を自分の側に少しだけ捻じ曲げて理解するとか。



ようするに人は自分が見たいものしか見ないとか、自分の認識(体験)
の範囲からは逃げられないとか、お釈迦様の手の平の上つう限界論。
だからぜんぜん同じ事象を見たとしても全く違った解釈が出てくるのも
頷けます。そういうことを称して人は「壁」というのかしらん。



一般に人に対する許容値の少ないのは経験の無い人か想像力の少ない人
だろうと思う。あ、まわりがみんな自分と同じように世界をみている
と信じているこころの正しい人もある意味では狭量かもしれないな。
理解できない事物は恐いけど理解できないこころはもっと怖ろしいな。




ふとした感想だけど、「保身」つうのはごく自然な振る舞いだと思う。
でも意識や言動が全て保身だけになってしまうとその姑息さが見えて
しまい、逆に保身にならないって例は良く見かけます。情けは人の為
ならず回りまわって己が為かな?