洗脳

 今日は雨も降ってたし、暇にまかせて過去ログを読んでみた。我ながら
けっこう面すろいね。さすが自己中。でも「後で考察する」とかいう宿題が
一杯たまっててまいった。ほんとは自分の中ではその場で結論は出ている
んだが、他の見方はないのか?とか少なくともネットの文献は押さえとこ、
とか石橋を叩いてんだよ。



 以前に洗脳とか言ってたアホがいたけど、これは宗教に必然的に付随する
特徴だと思うんだ。例えば宗教では妄執とか煩悩を阻却し自我を撲滅して
超越者に絶対帰依する。救い主とか最終解脱者との1対1の個別的関係だ。
それ故、独善的な排他性に陥りやすい。信仰というものが本質的に持ってる
一種の絶対性からくる帰結だろうね。危うい側面はどんな宗教にしろ持って
いる。あえていえば、超越者の教義に愛とか慈悲が有るかだろうね。
でもPOAも慈悲の一種とか言われれば、これも理屈の一種。


いっぽう、倫理・道徳というのは一般社会における普遍性を基盤にしている。
それ故、善悪の規準は相対的なものであり、共同性を前提にしている。
俺だけの道徳なんてのは成り立たない所以だ。しかし存在の根本理由に
ついては何も言えない。なぜ自分がいるのか?父母を含めた生命の連続性は?
それよりも宇宙の存在理由は(Dinge an sich)とか意味論になると何も言え
ない。


思うに、この両者は直交する座標軸でお互いに影響を持ち得ないが、直線から
平面になるように両方の視点を持つことにより確実に視野を広げてくれると
思う。でも、前者はエゴ滅却の実践で後者は多数のエゴの調整に過ぎないから
何を話しているのかしちゃかめっちゃか。



ようするに洗脳と言われているものは、宗教に付随する帰依の一種であり
これが無いと信仰は成り立たないが、これを理由に宗教を否定すれば我々
の存在自体の意味付けが難しいという絶対矛盾をどう止揚するかという
博士的な念仏にならざるを得ない。ふ〜、ちかれた。屁理屈倫理のほうは
いいのだが、宗教は実践をともなうから論評も難しいね。


伊藤 乾つう人が「さよな ら サブマリン」というオウム本を出した
そうだから読んでみよとおもた。(週刊ブックレビュー)