5月4日(金)みどりの日、発見と発明の狭間。

 清々しい晴れ♪14℃〜24℃、27%。

 都内散歩:六本木方面に進出す。芋洗い坂方面にて、ギャラリーをいくつか見学した後、東京ミッドタウン六本木ヒルズを探索す。人大杉日比谷線で日比谷方面に転進す。日比谷公園にてフード・フェスティボーに参加す。銘柄牛の焼肉とから揚げを食す。すぐ前の東京ミッドタウン日比谷を見学。6階のテラスに上がると公園と皇居が一望の元に展望できます。ここも人大杉!連休中はどこもかしこも人大杉



 発見か創造か(その2):

 無限の世界に入ると、自然主義的(日常感覚)な論理は殆んど崩壊すると云われちょりもす。例えば部分(偶数)は全体(自然数)に等しいとか。飛んでる矢は止まっているとか。

 そもそも無限と言う概念には、可能無限と実無限という二つの意味があって、通常はこれが混同されちょりもす。字義的な「無限」は限りが無いこと。限りがあるのは「有限」です。可能無限とは、ある限りを設定したとしてもその外側に必ず要素が存在するということ。つまり尽きないということですね。1−0.99999・・・というのは限りなく0に近づきますが、どこか遠くに1が走っている状態です。実無限はこれを0と断定してしまう態度です。πは3.141592・・・と限りなく続いておりますが、これをπという実態で断定してしまう態度が実無限です。

 数学的には、実無限と言うのが微分積分などで有用でしたが、これは論理的には矛盾を孕んでいるんですねぇ。限りが無いくせに、ある集合に限定してしまうからです。πとかeとかの実態をすべて掴めないのに、在るものの如く扱うからですぅ。と少し固い話になりましたが、有限なものの組み合わせにも、準無限的な組み合わせ爆発が発生します。

 例えば、数学的な記号のあらゆる組み合わせは、真っ当な数学理論を含み得るとか、アルファベットのあらゆる組み合わせは、今まで書かれたことのない文学を含み得るとか。確かに可能性としては有り得るのですが、限りなくある無意味なつながりの中で名作を捜すのは、むしろ創作と言った方が良いのではないでしょうか?いや、むしろ普通はそんなゴミの中から名作を捜さないですよね。・・・必ず在る筈だっちゅうのと、それを現前させる作業は全く別のことだと思うんですぅ。どもども。